文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年2月19日】最近ある同修が書いた、迫害を暴露する記事を編集していましたが、記事が長く、内容は時系列で事件を全てだらだらと並べていました。しかし迫害を暴く内容ですので、長すぎるとも思いましたが、やはり語尾などを直しただけで明慧ネットに投稿しました。この記事は1週間が経っても発表されませんでした。記事の読者は常人であり、常人の受け入れ能力を考えず、ただ原文から妥当でないと思う箇所を削除してから、もう一度明慧ネットに投稿しました。その後掲載されました。自分の考えは正しかったと思い、これ以上この件について考えませんでした。
しかし翌日、メールの受信ボックスを開くと突然、中国語明慧の編集担当の同修からのフィードバックが目に入りました。「同修、こんにちは。迫害の事案を選択する際は、典型的な案件を選ぶようにしましょう。決して時系列を並べただけの、だらだらとした内容にならないように気をつけましょう。私たちの真相資料の読者は常人であり…、もう一度内容を見直すことをお勧めします」と書かれていました。
読み終えて、私はやっと分かりました。明慧の編集担当の同修が、2回目に自分の投稿を掲載したのは、私が中国本土という危険な環境の中で法を実証しており、全体に影響を及ぼさないために掲載されたのであり、決して私の編集がよく出来ていることを意味しません。明慧編集の同修は法に対して責任を負い、私に対しても責任を負っているので、メールのフィードバックを送りました。私の出発点を指摘してくれました。
明慧編集の同修に対する感謝を覚えると同時に、師父の説法を思い出しました。「大法のいかなる仕事も、人に法を得させ、弟子を向上させるためであり、この二つを除けば、何の意味もありません。」(『精進要旨』(はっきり目覚めよ」)師父の説法と照らし合わせてみて、自分の内に向けて探してみると、私は悟りました。「何をするにしても、特に神聖で法を実証する編集の仕事は、衆生が法を得るため救われるために行っています。もしその出発点を失ってしまえば意味がありません」 自分ですら、当初投稿文を編集するときは、「もうこれ以上読みたくない」という印象を受けました。もし明慧編集の同修のフィードバックのように、読者が常人であり、その受け入れ能力を考慮しなければならない、というアドバイスを事前に考えておけば、このような内容では常人は最後まで読んでくれないことも容易に気づくはずでした。1回目に投稿しても掲載されなかった時、自分の内に向けて探し、それを直すべきでしたが、私は悟らず、明慧編集の同修のフィードバックを見るまでは悟りませんでした。
このことを通して、私は始めて自分の不足とは仕事の能力ではなく、衆生が救われるための出発点を考慮していなかったことだと気づきました。私はすぐに投稿した記事を編集し、内容を手直ししました。およそ2/3の内容を削除してから、3度目に明慧ネットに投稿しました。その後、私はこの上なく体が軽快になり、心性も向上していくのを感じました。