自分を厳しく律する
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『出発点』とその関連文章を読んだ感想

 【明慧日本2015年3月21日】『出発点』の文章の中の李旭鵬さんの現れは痛ましく、最低な人間のレベルだと思います。それでも何篇かの読者の反響の中には、彼に対して惜しむ感情が見うけられました。長年、法輪功学習者はさまざまな方面でよろめいてしまい、一部の人は一部の方面においての現れが実に劣っています。真相を伝える資料の中では、法輪功学習者をとても良い人として描いており、「行動が純潔で神聖だ」と書かれています。しかし私たちは「自分は本当にそこまで達したのか?」と個々に自問してもよいのではないでしょうか。実は、多くの時、個別の人の行動が大法と一致せず、資料に書かれた内容と違う時、よく常人や警官に指摘され、われわれは反駁できないのです。

 人を評価する際には、どのように言ったのかではなく、どのように行ったのかで判断すべきです。肝心な時のその人の現れは特に重要です。金銭詐欺、 同修を裏切る行為、不正な男女関係、ホラを吹く行為などは常人においても最低な人間とみなされており、そのような事をしたものは追い出すか、どこかに通報するなどの対処をとるべきです。その人の行動を知った常人はその人から配られた資料をどのように見るでしょうか?

 邪悪に対面する時の正念の強さであれ、日常生活において自ら律し、自分と他人の安全を注意することであれ、それらは法輪功学習者に対するもっともな要求です。邪悪に妥協し、日常生活においても心構えがなく、安全の問題についても注意するどころか、強い正念を他人に強く求めるのは、それはまるで「八方美人」ではないでしょうか。このような人をみても、ほかの人はその事を指摘しにくく感じたり、メンツを気にして指摘していないのです。

 法輪功学習者は自分の品行を厳しく律するべきで、ひいては「潔癖」であると第三者から思われるほど厳しく要求すべきです。法を正すことが終わらなければ誰にも機会がありますが、自分を正すことや、より多くの衆生を救い済度することに専念するよう勧めます。実は、李旭鵬さんの行動はとっくに法輪功学習者の行動ではなくなっています。彼が本当にまた修煉したければ、たとえほかの人に無視されても、誰もこの門から追い出すことができません。見えても見えなくても、排斥されても排斥されなくても、彼の修煉は自分に責任を負うことであり、自分の生命の選択なのです。

 ここで、重大な問題において現れが良くない人に忠告します。あなたの現れについてほかの人が知っているとは限らないし、知っていてもメンツを気にしてあなたに何も言えないかもしれません。しかし、あなたは己を知るべきであり、大法で自分を照らしてみるべきです。単純な方法では自分が「純潔」や「神聖」という言葉に相応しいかどうか、資料の中にある法輪功学習者の描写に自分は相応しいかどうかを判断してほしいと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/3/9/306016.html)
 
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