一人の仙人から見た大法弟子(一)
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文/善縁

 【明慧日本2015年4月29日】(作者前言)この文は同修の参考になるものですが、根本的には法を師としてください。私たちは他人が法を実証し、よい事を行うことを断れません。他人が不足を指摘してくれたら、われわれは法に照らして、内に向けて探し、自分を正して、深く「師を信じない、法を信じない」根源を掘り出さなければなりません

    *  *  *

 師父は『轉法輪』の中でこう説かれました。「地上佛や地上道については、もう一つの情況があります。中国の古代では、多くの人が、人が足を踏み入れない山奥で修煉していました。どうして今はいなくなったのでしょうか? 実はいなくなったのではなく、常人に分からないようにしているだけに過ぎず、少しも減っていません。これらの人はみな功能を持っています。ここ数年、これらの人がいなくなったわけではなく、みんな健在です。現在、世界中にまだ数千人いますが、わが国には比較的多く、ほとんどの人が名山や大河にいて、一部の高山にもいます。その人たちは功能で洞窟の入口を塞いでおり、彼らの存在は見えないのです。その人たちの修煉は比較的遅いもので、やり方はそれほど器用ではありません。彼らは修煉の核心を掴むことができません。それに対してわれわれの功法は人心を真っ直ぐに指し、宇宙の最高の特性に従って修煉し、宇宙の形式に従って修煉しているので、当然功が速やかに伸びます」

 少し前、私はある仙人に出会いました。定の中で現われたのではなく、常人の中で見えたのです。これは師父が彼の口を借りて、大法弟子たちに不足を告げてくださったと悟りました。この経験を簡単にまとめて、皆さんと交流し、共に法を師として、真に法の中で精進して行きたいと思います。

 彼は外見はごく普通の「中年男性」で、如何なる特別なところもありませんでした。目の前から去っていく瞬間に、師父は彼が皆に知られている歴史のある有名な人物であると、私の天目に示してくださり、私はびっくりしました。しかし彼は生まれ変わったのではなく、本人が現在までずっと生きてきて、1800歳を超えていました。

 師父は『ヒューストン法会での説法』の中で、「私が接触した人の中には四千年あまりも修煉している人もいます。彼らはなぜこんなに長い間修煉するのでしょうか? 彼らの次元が足りず天に上がれないわけではありません。彼らの中には三界を遥かに超えている人もいますが、上に行くことができないのです。彼らが上に行くことは許されません。彼らを受け入れる世界がないためです。彼らはなぜ功が伸びるのですか? これもこの層の法理によって決定されたことです。しかしそれらの世間の小道はまた異なっており、人為的にもたらされた場合もあります。初めは一つの門だけを修め、道家または佛家で修め、修めているうちに彼はとてもいいと思いますが、他の人からこれを修めに来ないかと誘われると、彼はそれを学びにいきました。そうすると彼の功は乱れてしまいました。もともと上のほうで師父が彼の面倒を見ていたのですが、この人がこうしているのをみて、上の師父はこの人を見捨ててしまいます。上に受け入れられないので、彼は三界を出ることができなくなりました」と説かれました。

 私に彼の過去が見えたと彼は気づいて、私と話しました。もちろん私は彼を恐れず、羨ましくもなく、興味がありません。彼の一門のものは大法とは比べものにならないと知っており、不二法門の法理もはっきりと分かっていますので、彼も私を妨害できません。そのため師父が彼のことを見せてくださったのかもしれません。私は彼に大法を広めたいと思って話をすると、すでに師父の説法を聞いたそうです。

 彼は私に師を信じ法を信じていますかと聞き、それはもちろんだと言いました。彼は『洪吟二』の中の「静かに思う幾多の執着の事を 人心を片付けば悪は自ずから敗る」を、あなたはどのくらい信じていますかと聞き、私は答えられませんでした。

 彼は現在の大法弟子の中でいくつか期待通りにならなかったことを私と交流し、彼の考えを話しました。私は法に照らしながら、問題の厳重性を認識し、大法への理解を深めました。下記に大体の内容を紹介します。

 彼の話では、常人には大法の威力が見えないのですが、真に100%師を信じ法を信じれば、如何なる問題も表れず、如何なる問題も阻むことができません。問題が表れた人は、みな師と法を信じることにおいて異なる程度の問題があります。ある人はいくら真に信じると言っても、表面の精進と固い堅持は人に見せるためで、実際の心理と行いは、如何なる神の目から逃れることができません。

 事後、自分と同修に確かにこういう状況があると気づきました。関を乗り越えることができなければできないほど、更に如何に固く信じているか、堅持しているかを表して、自分の内に向かって探さず、変わらない本質を覆い隠すのです。師父は『更なる精進を』の中で「私たちが何かを行うとき、人間に見せるためでもなければ、プロジェクトの責任者、佛学会の責任者に見せるためでもありません。そうではありませんか? 師父に見せると言っても、師父の主体はあなたの前にいません。誰に見せるのでしょうか? 神々に見せるのであり、師父の法身も見ており、無量の宇宙の衆生がまばたきもせず皆さんのすべての念と考えの動きを見つめています。誰に見せているのでしょうか? 法を実証する中で皆さんが行なった多くの素晴らしいことは宇宙のこの間の歴史に記載されており、どの大法弟子に関しても少しの漏れもありません。しかし、常人の表面のことを重く見ていれば、それは執着であり、人心です」と説かれました。

 彼は「大法弟子の大部分が修煉が良くできていても、常人社会で修煉しているから、迷います。どれだけ高く修煉できたにしても、最終的にどのぐらい高く成就できたにしても、主体が常人の中で、一番低い次元で修めているので、あらゆるよくない行いや、あらゆる良くない念や、面倒な事を招いてしまうのです。これは三界内の神に一目瞭然です。しかし、彼らは直接話すことができず、師父はなお更直接に言えないので、あなたたちに悟ってもらうしかありません」と言いました。

 師父が明らかに話せない法理について、多くの学習者も分かっており、大法は何回も説かれました。師父は『北米五大湖地区法会での説法』の中で、「この過程の中に、皆さんは様々な具体的な問題、多くの困難にぶつかりました。最初どうすればいいか分からなかったのですが、だんだん分かってきて、試行錯誤しながらどうすればいいか分かってきました。特にあの時期に私は何も言わなかったのです。私がもし何かを言ったら、試練として成り立たないからです。試練として成り立たなかったら、二つの問題が生じるのです。既成の勢力は全力を尽くして破壊し、大法は邪法と見なされてしまいます。それなら私がしている法を正すことに大きな支障をきたし、宇宙全体に大きな混乱をもたらします。それではだめです」と説かれました。

 続いて彼が指摘した問題は厳重なことです。「しかし、少なくない人が長年経っても悟らず、関を乗り越えられず、だんだん師と法を信じなくなりました。ある人に僅かな功能が現われると、浅はかな大法弟子は彼にお世辞を言い、スパイがわざと彼にお世辞をいうので、彼は弁別できず、ますます執着してしまいます。師父の功能を見たことがないので、自分が『師父の肉体』より低くないと思い込み、スパイがいくらかの古い学習者を惑わし彼に従ってしまいます。海外の一部の責任者も同じく、スパイにお世辞を言われ、気分よく、スパイを親しい人だと思っています。大法に説かれているのはあまりに玄虚なもので、『師父の能力は限界がある』とだんだん思うようになってしまいます。もし彼の法門であれば、このような弟子は除名されるのです。しかし、大法はずっと彼に機会を与え、彼に戻ってくる機会を与えれば与えるほど、師父は更に言えないので、彼は更に自分のほうが有能だと思い、師父と法を信じなくなります」

 私はその後、何人かの同修の事を思い出しました。彼らは一旦師を信じ法を信じることに問題が表れると、法の勉強も心に入らなくなります。この場合彼と徹底的に交流して、本当に心から「病の根元」を認識できれば解決できます。師父は『二十年説法』の中で「法を正すことが終わる直前にならないと、師父は人間のように行動し、神のように誰かに接することはありません。もし私が今、神のようになってしまえば、皆さんの修煉の環境を破壊し、修煉の中で悟らなければならない迷いを破ってしまうことになります。皆さんが行なったこと、皆さんの修煉はもう認められなくなり、このすべてを台無しにし、衆生も救い済度されなくなるため、皆さんは人心で法を量らないでください。人間の考えで師父を見ないでください。師父が伝えたこの法は皆さんに修煉させることができ、皆さんはこの法の中で修煉し、この法と照らし合わせてください。法は間違っていません。法に最も表面の人間の文字、言語構造がありますが、決してこの表面だけに限られることはなく、各次元に法の内涵があります」と説かれました。

 彼は「亡くなった大法弟子の中には、こっそりと痛め止めの薬を飲んだ人、こっそりと病院へ行った人、身体検査の名義で病院へ行った人、甚だしい場合、治療するために病院へ行った人も、手術した人も、入院した人もいます。国内にもいるし、海外ならなおさらです。一部の責任者も含め、新しい学習者にも及びません。新しい学習者は半信半疑が許されますが、疑うより信じるほうが強く、よく煉功すれば病が治るのですが、古い学習者の場合、疑わず固く信じなければ関を乗り越えることができません。しかし、疑心を取り除かず「病状」が長くなると、悪循環になり、甚だしきに至っては彼らは「他の人が煉功して治ったのは偶然だ。本来煉功しなくても自ら治る」と思うので、これは典型的に邪に悟る例です。もし彼の法門の場合、このような弟子はもう徹底的に終わりです。しかし大法はずっと彼に慈悲を与えますが、彼はかえってますます悟らず、自分の次元が他人より高く徹底的に悟ったと思っています。少しよい場合は大法を疑いませんが、自分に自信がなく、師父が自分を放棄したと思うので、これも師を信じず法を信じないことになります。

 もちろん大法は新しい学習者にそんなに高く要求していません。師父は『ロサンゼルス市法会での説法』の中で「新しい学習者、またはそれほど精進していないと自分も思っている人は、病気にかかって、やはり病院に行きました。行ってもよいのであって、修煉の過程として考えればよいのです。これから修煉がさらに良くなったときになると、どのように行なうべきかが、次第に分かってくるのです。修煉には、どうしても過程が必要で、人間に機会を与えなければなりません。もちろん、精進している学習者なら、何も言う必要はありません。心細くなった学習者が病院に行っても、師父はあなたを指摘しません」と説かれました。

 彼はまたこう言いました。「大法の法理の中に巨大な無辺の功能とエネルギーがあるのですが、多くの大法弟子は真に信じていません。労働教養所で迫害によって体に障害をもたらした人は、もし真に大法を信じ、真に修煉し、本当に自分の心を変えれば、みな早く治ります。しかし、多くの人の正念は殴打によりなくなり、すでに大法を疑っているのです。彼らが外に出てきて法の勉強に精進しているように見えても、他人に見せるためのものです。修煉当初、彼らは重い『病気』にかかっても、頑張って煉功したのですが、今彼らは煉功を堅持する心すらなくなり、体は動きますが、辛いと言い、様々な言い訳で煉功しません。なぜかというと、彼らはすでに半信半疑になっています。人はごまかせますが、神の目はごまかせません。法に対して僅かな懐疑があっても大きな『生死の関』を乗り越えることはできません。なお更彼らの懐疑は決して少しではありません。法への悟性がすでに常人に落ちているから、関を乗り越える方法がありません。長期に悟らなければ再び延長することができなくなります。もし彼らが分かれば、正念が出てきて、修煉の初めの頃のように精進すれば、彼は絶対に快復できます。麻痺した大法弟子と危機に陥った大法弟子が、素早く快復したではありませんか? 法に対して少しの懐疑もなければ奇跡が現われます。よく行なった人は本当に敬服されるのです」

 私は一部の同修の事を思いつきました。彼らが刑務所から出てきてから、多くの同修が常人のように彼らの面倒を見ましたが、彼らは真に時間を大切にして法の勉強と煉功をせず、彼らを意のままにさせます。彼らも本当に煉功したくないし、法を聞いても思想がほかの事を考えたりしています。重い病気や障害になったのは、これが原因だったのかもしれません。またある刑務所から出た同修が家族にもう大法を信じないと言いましたが、同修たちは分からないので、また集団で正念を発しましたが、結局彼は亡くなりました。このような人が何人もいました。もし当時彼らと徹底的に交流できれば、それを挽回できたのかもしれません。

 彼は自分の法門が大法と比べられないと言い、100%の正しい信念を持って三界の魔難を乗り越えたと言いました。小さい法門でさえできるのに、一部の大法弟子はなぜできないのでしょうか? 彼らが大法はそれほど不思議なものとは信じず、自分を大法の外に追い出したのです。

 私は『轉法輪』の中で説かれた、「絶えず煉功すれば、絶えず延長されます。修煉すればするだけ延びるので、根基が良いのにすでに年を取ってしまった人も、これで煉功の時間は足りるようになります。しかし、ここに基準が一つあります。定められた天寿を越えた、延長された生命は、すべて煉功するために与えられたものであり、間違った考えが浮かんだだけで命の危険を招くことがあります。というのは、あなたの生命の過程はとっくに終わっているからです。世間法の修煉を終えて、この制御を受けなくなれば話は別です。その時になれば、まったく別の状態になるのです」を更に深く理解できました。

 もちろん彼はまたほかの事も話しましたが、根本的原因はすべて大法弟子が「師を信じ法を信じる」ことに問題があったからもたらしたのです。彼もただ話しただけで、私も彼に興味がないので、ただ大法に照らして、自分と同修に法理上の浅はかさと誤解の部分が多く見えました。

 多くの大法弟子は自分を覆い隠し、表面では他人に精進を見せていますが、問題に遭う時、もし覆い隠さないで、心を開き、同修と交流して法理の上で深く悟ることができれば、多くの遠回りの道と損失を防ぐことができます。

 以上は個人の認識で、不適切なところがあれば、ご指摘をお願いします。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/3/31/306893.html)
 
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