正しく悟ることがとても大事
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年4月8日】私は、黄色い蓮の花の上で座禅していました。光輝く慈悲深い師父の下で、師父が与えてくださった無限の知恵で、ミクロからマクロまでの天体を見渡すと、無数の果てのない世界に感動しました。そして法の中に溶け込む穏やかさや静かさ、厳粛かつ神聖さを感じ、仏体と一体となった不思議さを体験しました。

 そして、そのような雰囲気に包まれ、文章を書きだすと、知恵が溢れ、自由自在に書くことができました。

 ところが、このすべては昔からすでに按排されていたと感じました。どの時期に誰が出てきて、誰が退場して、また誰と誰が接触して、誰を通して誰に悟りを開いて真理を会得させ、どの面においてどの問題がどのような形で、どのように進み、誰が携わるかも、すべて決められていて、みな一定の順番の通りに按排されています。しかも相当緻密に、厳密に按排されていますので、ごく自然に現れてきても、自然の成り行きではないので、悟らなければ察知することができません。これも師父の慈悲の按排の一つかもしれません。日常的な現れですが、悟るかどうかは私たち次第です。

 だからこそ、師父が法を正すことを手伝う中で、正しく悟れるかどうかが、肝心なことになります。人間の如何なる思想と観念を加えても不純になります。できるだけ慈悲な状態で、穏やかな、純粋な心を保って、大法弟子としてやるべきことを行えば、その過程で良くない物質を滅し、徐々に向上していけます。

 そして、行なったすべては最も良い ことであり、神聖なことです。しかし、人心で行なうと、常人社会での面倒を引き起こし、損失をもたらしてしまうかもしれません。その結果、修煉の難しさが増し、師父が法を正すことの妨げになってしまうのです。好意からやったとしても、人心は人心なので、効果は逆になります。これは旧勢力のやり方と同じです。表面上では、師父が法を正す事を手伝っているように見えますが、本質は自分の目的を果たすためだけにほかなりません。

 ゆえに、最後になればなるほど、自分たちの言行になおさら気を付けなければいけません。

 大法の中で鍛えられるというこの機会は、千万年待っても会えない機会なのです。大法は無辺の力があります。法を正す道を最後まで歩んでいくという揺るぎない決心と、その一念を貫いていけば、私たちは必ず天国に戻ることができるでしょう。

 
 
(中国語: http://www.minghui.org/mh/articles/2016/4/2/326127.html )
 
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