「心が動じない」についての認識
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正法の修煉は人心を真っ直ぐに指すもの

 【明慧日本2016年6月3日】私は最近いくつかの事を通して、師父が説かれた「大法の修煉は人心を真っ直ぐに指し」[1]のある次元での理が分かり、それからは何かがあっても物事自体を重く見なくなりました。

 私がお姉さんと呼んでいる同修の家族は全員が修煉しています。しかし、お姉さんのお母さんは2年前に病業でなくなりました。棺を用意する時、将来お父さんも亡くなったら合葬できるようにと、2人分のお墓を購入しました。そして、1年後お姉さんのお父さんに重い病業が現れ、歩くのも大変な状態に陥りました。たくさんの同修を家に呼んで、お父さんと交流したり、発正念をしてあげたりしても、快復する気配はありませんでした。1人の同修が『明慧週刊』の合葬についての交流文章を見せると、お姉さんは購入した2人用のお墓を1人用に変えるべきだと認識しました。そこで私の家族に電話して、それについて交流しました。また私に彼女のお父さんのお世話を頼みました。

 私はお姉さんの家に着いた翌日、彼女と一緒にお墓を変更しに行きました。しかし、道端でタクシーを拾おうとすると、数台のタクシーが空車にも関わらず、止まらずに行ってしまいました。ようやく1台のタクシーが止まってくれて、乗車すると佛教の信者のタクシーでした。車内に佛教のビデオがありました。同修は早速共産党は如何に中国の伝統文化を壊し、それが原因で今日の気候まで狂うようになったかを話すと、運転手は「あなたの話は間違っています。如何なる事も先に原因があって、次に結果があるのです。例えば、2人が生まれる前に来世はお隣さんになると按排されているとしたら、中の1人がどこへ引っ越しても、もう1人の人は必ずついていきます。運命で定められているからです。しかし、1人が出家して修煉したら変わります」と言いました。

 これは師父が運転者を利用して、告げてくださっていると思いました。常人なら死んだ後合葬するのは当然ですが、大法を修煉するものにはこういう按排がないと悟りました。動揺しているお姉さんを見て、私は「今日は行くのをやめましょう」と言うと、運転者は「あなたは良いほうに言わなければいけません。ほかのことを言ってはいけません」と忠告してくれました。おかげで、他人の不足を見て自分を探すべきで、同修の心が動じたのを見ても、自分は動じないようにすべきだと悟りました。直ちに自分を調節して「じゃあ、行きましょう」と言いました。

 墓地に着いて、お墓を変更した後、墓地の管理人が私たちにサインを求めました。私たちと亡くなった人との関係を聞いた後、お姉さんにサインしてもらうのではなく、私にサインを求めました。それを見て、これは人間が私に求めたのではなく、他の空間からも見られていて、私に求めたのかもしれないと思いました。

 そして、ふたたびお姉さんの家に戻りました。数日間お世話をしてみると、お姉さんのお父さんは私生活にかなりこだわっていることが分かりました。例えば、野菜の切り方とか、油をどのくらい温めてから材料を入れるかとか、ごはんを炊く水の温度がどのくらい上がってから米を入れるかとか、惣菜はどの店のものを買うかとか、米と麦粉も全部指定するメーカーがありました。お父さんの生活は修煉と結びついていませんでした。それでお姉さんと同修たちは、これはすべて執着で、取り除かなければならないとお父さんと交流しましたが、私は心を動ぜずに、お姉さんに「大丈夫ですよ。お父さんの言う通りにご飯を作り、物を買います」と言いました。

 同修のお父さんはよく眠る人でしたので、しっかり学法ができていませんでした。そのためお姉さんは私に「お父さんの学法を管理してください」と頼みました。しかし、1回法を勉強してみると、お父さんは私と一緒に法を勉強したくないようでしたので、それからは無理矢理には要求しませんでした。

 お父さんは常人のインターネットをよく見ていました。そのせいなのか、パソコンの調子が度々悪くなっていました。修理するため、私に近くの同修を呼んできてほしいと頼みました。ただその同修が監視されているから、気を付けるようにと言いました。私が同修の店へ行くと、留守でした。しばらく待ちましたが、なかなか帰ってこないので、帰ることにしました。しかし、私が家に着くとすぐに、お父さんはまた行ってみてほしいと言うので、再び同修の店へ向かいました。またしばらく待っても、帰ってこないので、帰りました。しばらくして、お父さんはまた行って見てくださいと言って、やはり人がいませんでした。こうして何回も繰り返しましたが、私はずっと心を動じませんでした。

 お父さんは半月ほど便が出ませんでした。そして、私たちに言わずに医者を呼んで浣腸することにしました。私とお姉さんは別の部屋で待機して、すべて師父に任せて、心を動ぜずに、何の良くない念も生じませんでした。結局、浣腸はどうしてもできず、医者は帰りました。こうして、私がお邪魔して20日間も過ぎていないうちに、お父さんの病状はすべて治って、自ら台所に立って、ご飯まで作ってくれるようになりました。

 この件で、私は特に何もしませんでした。正念もいつも通りに発して、わざとお父さんの病業のために発したこともなく、ひたすら法の要求に従って自分を修めるだけでした。複雑な表れの前で、私は如何なるマイナスの考えも、正しくない念も生じずに、お父さんを責めたり、恨んだり、要求したり、変えようとしたりもしませんでした。

 もちろん迫害されている同修は、法の要求に符合しませんでした。でなければ病業に至ることがありません。しかし、この時同修に必要なのは正の力での加持ですので、同修ができなかったことは私が助けてあげることにしました。例え同修が1%しか法に符合していなくても、自分の99%法に符合する部分を持って、同修の不足を測ったり、要求したり、変えようとしたり、教えたりするのではなく、同修の1%の正念を加持するのです。これも一種の善の表れだと思いました。そして私たちが自ら法に符合したら、師父はすべてを正してくださるのです。このたび経験したことから、私は法の偉大さと素晴らしさを体験しました。そして師父に無限の尊敬の念が生じました。

 そしてこの事から、私は各地で発生している迫害を連想しました。迫害の前で、元々肝心なのは、師父が説かれた「一つの心が動かなければ全ての動きを制することができます」[2]を私たちは成し遂げることができたのでしょうか? 如何なる表れにも心を動ぜず、生じる念はすべて迫害を否定し、邪悪を取り除くものでしたでしょうか? それぞれ自ら師父の要求に符合するようにすべきです。邪悪を解体する過程は、自ら変異した考えと観念を正し、法に同化する過程でもあります。そして基準に達したら、慈悲なる師父は「法輪を転動すれば乾坤正す」[3]のです。

 以上個人のわずかな認識でしたが、適切ではないところをご指摘お願いします。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『ヨーロッパ法会での説法』
 [2]李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
 [3]李洪志師父の詩:『洪吟』「心明らかにする」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/5/29/329353.html)