文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年9月11日】明慧ネットで、師尊の新しい経文『波紋を呼んだ副元神に関する文章について』を拝読しました。新しい経文の中で、1ヵ所に、師尊は「学習者」と言う言葉を使われました。師尊は「一部の学習者は何かの情況が見えましたが、それも大法弟子が慈悲をもって衆生を救っていることの表れです。皆さんが衆生を救う中、混乱した状況に置かれている衆生はそれぞれの正と負の状態を表しているに過ぎません」[1]と説かれました。
翌日、私はまた数回新しい経文を拝読しました。師尊は再び「学習者」との三文字で私に啓示してくださいました。一瞬、私はこの三文字に震撼し、涙を流しました。「師尊は私の弱点を知っておられ、学習者と弟子の間に差があることを私に啓示されました。自分の不足をしっかりと探さなければならない」と思いました。
私は漸悟状態で修煉をしています。天目が開いている同修の欠点は私も分かっています。彼らは自分が見たものを基準にしやすく、自我に執着し、他の同修と対立しやすくなるのです。また、同修が天目の開いている同修と交流をしようとする時、彼らはそれを察知して、自分が触れられたくなく、傷つけられたくないため、さらに、自分を守ろうとして、同修を避けるのです。
誰でも人心を持っているわけですから、一部の天目が閉じている同修は、「あなたが見たものは正しくない。それは自分の心より魔が生じることだ。異を唱え別のやり方をして他の同修を間違った方向へ導いている。法を破壊している」と考え、さらに、天目の開いている同修のことを、裏切り者だとか、悪魔だと言っている人もいます。言葉はとてもきつく、天目が開いている同修を受け入れられず、心が大きく傷ついてしまい、自ら心を閉ざし、甚だしきに至っては挫折して、二度と立ち上がれないこともあります。そのため、時間を無駄にして、時機を失ってしまい、師父との誓約を果たせなくなるのです。
一方、天目が開いている同修として、あなたたちは、先史の誓約があって、一定の使命を引き受けており、他の同修と異なる道を歩むことになりますが、しかし、もし、自己を放下できず、自分が悟った理や自分が見えたものに執着して、自分が正しいと思い込んでしまえば、その結果、自分に固執してしまい、自分の殻に閉じこもってしまいます。
一部の天目が開いている同修は、自分がすでに円満成就したと思い込み、大法の本も読まず、煉功もやめ、人を救うこともやめ、円満成就を待つだけにしています。同修の言葉も耳に入らず、うぬぼれて、眼中人なしになり、自分はなんでも知っているように、話す時でも人を軽蔑する表情を帯びているのです。
師尊は「学習者」という言葉を使って、私に啓示してくださいました。天目が開いている同修は、もし、法を正す期間中、自分の理や自分の能力に執着して、自分が見たその少しの天機を絶対的な真理だと思い込んでいれば、本当に法を師にできず、自我を放下できず、旧宇宙から抜け出すことはできません。そうなれば、その人は。大法の中でいくら長く修煉しても、大法弟子の基準に到達できず、結局、せいぜい「学習者」に過ぎません。なぜなら、その人はしっかりと内に向けて探しておらず、自分をしっかり修めていないからです。
見えるか、見えないかは関係なく、修煉者として、誰でも、たくさんの複雑な要素が私たちを妨害していることが分かります。たとえ、私たちが見えたとしても、それはあくまでも修煉の中で、ある次元の理に同化しているから、先天的な本能が顕れただけのことです。私たちは、この世に降りて来る時は、なんでも知っていましたが、今度、帰る時は、ぼんやりする中で、わずかしか見えていないことを、何も自慢して誇らしげに、それを固守する必要はありません。
他の空間はきわめて複雑で、各種の生命は量り知れないほど多く、たとえ私たちが見えたとしても、それはわずかな一部分に過ぎないので、これだけの妨害があり、さらに、旧勢力が按排した妨害要素も忘れてはいけません。彼らは師尊の姿にまで変化して、大法弟子を間違った方向に誘導するのです。だから、師尊は説法の中で、何度も私たちに「法を師にする」ようにと忠告されたのではないでしょうか。
したがって、私達は何を見たにせよ、聞いたにせよ、何もかもすべて法によって評価しなければなりません。なぜなら、私たちが見たものは絶対的なものではないからです。もし、執着心が強ければ、聞いたもの、見たものはすべて「心によって変化」するのです。
もし、ある同修が、天目が開いている同修に反対意見を出した時、それは人に反対しているとは限りません。異なる声を許してあげなければならないし、法に基づいて、評価しなければなりません。たとえ、その場で、執着心や感情から、あるいは自分の面子を保つためにその意見を拒んだとしても、その後、必ず自分をしっかり法に照らさなければなりません。けっして心を狭くしてはいけません。くれぐれも、「お前は間違っている、私を傷つけた。だからお前を無視して、次回、もう何も言わない、或いは同修を避ける」ような行動を取ってはいけません。それは、心の中の執着を取り除いていないことです。心を閉ざして、心を開かなければ、自分の欠点を認識することはできません。あるいは小さなグループを作って、自己を堅持し、同修を軽視して、自分は同修より上にいると考えると、すでに下へ落ちているのです。意見を言う同修は、実は、天目が開いている同修のことを心配して、大法から離れないようにしてくれているのです。
他の同修は自分が何かを悟ったと言う場合、たとえ、私が見えた光景と違っていても、私は、同修の考えを否定したりしないようにします。なぜなら、自分が見たものは絶対的なものではなく、同修の考えもそれなりの理由があるかもしれないと考えます。そう思うと、自分の視野と知恵はさらに開かれるようになります。このようなことを絶えず経験して行くと、自分の状態が変わり、自我に執着したり、堅持したりしなくなります。私が見たいくつかの光景と同修が悟ったものを総合的に考えれば、私たちの知恵は互いに補い、何かをやる時、本当に握りしめた拳のように力強くなり、妨害する要素を直ちに一掃することができるのです。
私達は下へ降りて来た時、それぞれの宇宙の破滅を救おうという目的を持っていました。私たちは師尊の前で、一定の責任を果たそうと誓約を交わし、衆生を救うため、この世の中に来ました。もし、私たちが自我に執着するならば、私たちが降りた当時の初志から背離することになり、人間の中に閉じ込められるようになります。
師父は私達に知恵と能力をくださり、私たちが成し遂げるすべてをくださり、さらに、私たちを見守り育てておられます。私たちは自我を放下してはじめて、師尊が按排される道を歩むことができ、大きな円満成就をやり遂げることができるのです。自我に執着し、古いしきたりをいつまでも固守し、自分の小さな輪の中に留まり、私の為の特性から抜け出さなければ、「成、住、壊、滅」から逃れることはできません。
新しい経文の中で、師尊は六カ所で、「大法弟子」を使われ、一カ所だけ「学習者」を使われました。それは、私たちが本当に深く考えさせられるところだと思います。もうこれ以上、自己を堅持せず、師尊のこのお言葉のお気遣いを体得して、法を正す進展について行かなければならないと思いました。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『波紋を呼んだ副元神に関する文章について』