修煉上で実証科学の観念は大きな妨げとなる
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文/北京の大法弟子

 【明慧日本2016年12月12日】最近ある友人を訪ね、修煉の道に戻って欲しいという願いを込めて会ってきました。しかし、彼は私の話を聞かず、佛教の理論についてまくし立てるばかりで、人の盲目さがいかに魔性であるかに気づかされました。彼は学者が学問を研究するような形で佛教のことを扱い、実証されたものは信じるが、実証されなければ信じようともしませんでした。

 これは、私にある根本的な問題を直視するきっかけとなりました。それは師父を信じ、法を信じることです。私は長年の修煉で順風満帆に行ってきたのではなく、何度も挫けましたが、毎回原因は異なります。普段の学法の中で法に対する理解もそこそこできていますが、肝心なとき、試練に直面したとき、思想の中に正念がなく、人の考えになってしまいます。その結果、問題を解決する手法が常人のやり方で、修煉者ではなくなり、人に戻ってしまうのです。

 私は20年も学問し、物事を考えるときは実証科学の理念に強く影響されています。無神論の概念は見えない現象を受け入れないのです。他の空間の現象を考えもせず、受け入れることも出来ません。絶対化の思想形式になってしまい、そのため、魔難に遭遇したとき、現実的なことしか見えず(例えば、刑務所にいたら警察官に立ち向かうことが出来ないと思う)、目に見えないこと(師父が見守っておられることなど)は存在しないと思ってしまいます。普段からそういう意識がなく、魔難に遭った時、師父のことをなおさら思い出せず、実証科学の観念に影響されてしまうのです。迫害された時も師父や法を思い出すことが出来ず、正念をもって迫害を抑制することも出来ません。これらの原因は学法がしっかり身に染みていないために、大法の角度から迫害を認識していないためです。ましてや正念を持って対処することは、はなからとうてい無理で不可能だと思っているのです。

 しっかり法を学び、修煉の道を歩みたければ、実証科学の考え方を放棄しなければなりません。頭の中で「こんな不思議なことは本当でしょうか?」という考え方を捨てなければなりません。特に、中国という特殊な社会環境で人々は信頼を失い、だれも信用できなくなりました。この環境において、自分を守る観念を捨て、師父と法を信じなければなりません。法の中で形成された正念で魔難や試練に立ち向かい、そうすればきっと、すべての関を乗り越えられます。私たちが師父や法に自分を完全に委ねられない根本的な原因は、自分に不利益なことを被られるという恐れがあり、常人の名利や情などを失うのが怖いからです。修煉とはこれらのものに対する執着を無くすことです。恐れる心はつまりこれらを放棄したくないことであり、師父を信じ、法を信じることが全く出来ていません。

 すべての修煉者はさまざまな不思議なことを体験しており、常人でいる時には現れることがなく、佛法を修煉しているからこそ現れたのです。予想以上に良い結果が現れたのは私たちの能力を超えており、神佛のおかげです。私たちがすべきことは、佛法が正しいかどうかを判断する(これは実証科学の態度)のではなく、佛法を修煉し、信じることで不思議な結果が現れたのだと世の人々に伝えることです。それが法を実証するということです。

 師父がおしゃっるように「言い換えれば、どの領域にいても、あなたの技能が向上できれば、それは自分の境地を高めたあとの現れです。見た目では、あなたは良い人を目指しており、心を修めています。人間の角度から言えば、あなたは良い人になり、法を勉強し、内に向けて修煉しているから、行ないがますます良くなり、そのため、神はあなたに備えるべき智慧とひらめきを与え、勉強の中で多くのことを分からせ、さらに良いものを創造させ、もっとレベルの高い技術を身につけさせ、飛躍があるようにします」[1]「もちろん、彼らより一つ次元の高い神も低次元の生命がものを発明することができるかどうか、何かを創造することができるかどうかを境地の向上と関連付けたのです。境地が高まれば、その生命の智慧を開かせ、何かの成果を得たり、何かを創造したり、向上したりするようにします。向上の後、道徳が高まり、境地が高まったからこれらのことを得たのだとその生命は絶えず認識することができます」[2]

 そのため、修煉の道において、私たちは身の回りに現れた現実的ではない現象をすべて大法と師父によるものだと思い、自我を放下しなければなりません! 私たちは謎めいた三界に生活しており、人々は怪奇現象に様々な解釈をつけています。しん気楼の現象を強引に説明しているにもかかわらず、信じる人がいます。科学でも解明できない現象は多くあり、どうして私たちは科学的な観念をもって、実証科学では説明できない迫害に対して直面した時、正しく対処できるでしょうか。

 実証科学の観念は修煉の道における大きな妨げであり、これを放下しなければ、私たちは修煉の道において向上や突破が出来ません。その観念に影響され、人々は物質的利益しか重視せず、人々はますます物欲になり、精神の向上をおろそかにします。これはまさに実証科学の最大のデメリットです。また、師父や法を信じず、修煉における不思議な現象を自己の努力によるものだと勘違いさせられてしまいます。人として自我尊大になり、壊滅に陥るのです。

 私は長年の修煉を通じて、師父を信じ、師父のおっしゃるとおりに考え、行うべきだと感じます。実践の中で自分を修め、常人において形成された観念の基準で是非を判断しません! 私のような学者は、習慣的に形成された思惟に陥り易く、実証科学の観念で修煉の中に出てくる問題を解決しようとします。これは師父や法を信じない現われです。常人で学習した時間が長ければ長いほど、観念が強く、師父や法を信じないことになりがちです!

 以上は私が20年近く修煉してきた体得であり、同じく学者やアカデミックな仕事に従事している同修たちに参考になれば幸いです。そして、共にこの実証科学の妨害を乗り越え、勇猛精進(自らの信念に基づいて困難をものともせず、懸命に努力すること)していきたいと思います!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『ロサンゼルス市法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/3/336987.html)
 
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