佛法の恩恵の下で成長する
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文/中国の大法弟子 童宇

 【明慧日本2017年4月3日】1994年、私はまだ8歳でした。記憶に残っているのは、母に無理矢理苦い薬を飲まされたことぐらいです。粘々した真っ黒な飲み薬は、父からの遺伝によるB型肝炎を治すことができるからということでした。当時の私には何も分からず、ただ、幼い頃、体中に黒い膿ができ、それが垂れた場所から皮膚がボロボロに腐っていきます。やっと治ったかと思えば、B型肝炎にかかってしまいました。当時の私はB型肝炎が何なのか全く知りませんし、父が医者と病室で長い時間話していることの理由も知りませんでした。そして、ベッドの上で黄色い顔をして今にも止まりそうなほどの弱い呼吸を繰り返している病弱な父が、一体何の病気にかかっているのかも知りませんでした。その年の年末、祖母が上海から戻ってきて、父に法輪功を教えました。すでに病院から「もう救いようがない」と宣告されているのなら、試しても構わないだろうと思い、父は祖母に言われた通りにしました。間もなくして、父は奇跡的に生還し、母も久しぶりに笑みを浮かべました。私も薬を止め、1995年に父と共に修煉の道に入りました。修煉を始めて間もなくすると患っていた病は全快し、20年以上にも及ぶ修煉の道のりがこのようにして始まったのです。

 愉快な子供時代

 長年、子供時代のある日のことをずっと覚えています。私がまだ6歳の頃、ある日、母は家族の前で私に今はいている靴の色を聞いたのです。私はしばらくの間、自分の靴を見て「黒」と答えました(実は赤でした)。母は困ったように頭を左右に振りながら「この子のIQレベルが低すぎるわ。何度教えても未だ自分の靴の色すら分からないし、数字も覚えられないの。これで小学校に上がったらどうしよう」と母方の祖母に言いました。

 けれども、法輪功を学んでから、小学校だけではなく、中学や高校、大学まで私の成績はトップ3に入っていました。両親は中高までの教育しか受けておらず、その上ちょうど文化大革命が始まったころで、私の学業には全く手が出せません。私は1日たりとも塾に通ったことはありませんが、ほぼ毎年成績のみで奨学金を獲得していました。特に数学に関しては常に学年トップの座を維持していました。母は私の成績を誇りにし、父は「全て李洪志師父が知恵を授けてくださったのであって、決して驕ってはいけない、常に謙虚でいなさい」と私に言い聞かせました。父の言うことは正しいので、私も成績を気にしたことはなく、大法の書籍に書かれているように「真・善・忍」の教えに従って自らを律しました。学校でトラブルに遭うと真っ先に内に向けて自分を探し、悔しい思いをしても、ヘラヘラと笑って全く気にしませんでした。

 あの頃は毎週末、父と煉功拠点へ行き、皆で煉功したり、学法したり、師父の説法ビデオを見たり、新しい学習者に煉功の動作を教えたりしていました。幼いころから罹っていた病は修煉によりすでに全快し、毎日がとても楽しかったのです。

 沈黙の少年時代

 1999年7月、私は有名な中学校に合格し、家族全員で夏休みを満喫していました。ある日、仕事に行っているはずの父が突如家に帰ってきました。同時に、多くの警官が乱入してきて、大法の書籍を探し出し、全部押収しました。警官が帰った後、父は苦痛と何ものにも怯えない堂々とした表情を見せました。父は「政府が大法を誹謗中傷しているので、法を実証するために北京へ行く」と言いました。私も行きたかったのですが「まだ小さいから留守番していなさい」と言われました。

 間もなくして、父は列車の中で連行されて拘禁されました。仕事も失い、その後、労働教養3年の判決が下されました。家に残された母と私は何度も警官による不法侵入と差し押さえ、尋問、恐喝などに遭い、また、周囲の親戚や友人たちも嘘に騙され、私たちから遠ざかっていきました。それから2年もしない内に母も仕事を失い、私の学費のために、男がやる運搬作業で月に600元を稼いでいました。(当時、公務員の給料は800元~1000元くらい)。「この仕事は疲れるけれど、雇ってくれるだけでも有り難いので、学業だけは疎かにしてはいけない」と母に言われました。

 あれから3年後、私は省の有名高等学校の進学クラスに合格しました。この期間、学校では静かにしていましたが、祖母との煉功と学法を続けていたので、若者たちの良くない行動や話し方などには影響されませんでした。生計が厳しいので、服に対する執着もなく、3年間、ほぼ毎日制服を着て過ごしており、皆からは「制服の彼女」と呼ばれていました。ある日、クラスにやんちゃな男子がいて、みんなで校内の廊下で私のことを「ブス」と大声で呼びました。彼の言っていることは正しいと思ったので、賛成の意を込めて笑顔で返しました。これを見て、彼は一瞬驚いたものの、すぐにどこかへ逃げ去って行きました。

 高校に上がった時、父は出所しましたが、刑務所の中のことは何一つ話さず、ただ修煉を怠らずに精進するように促し、同級生にも真相を伝えなければならないと言いました。父の歯が折れてなくなっているのを見て、父が刑務所の中の出来事をこっそりと話しているところを盗み聞きしました。父は労働教養所で拷問を受け、壁も凍っている真冬に、四方の壁に沿って何周も走らされた。これらを聞いて、私は誰にも見つからないように密かに泣いていました。もちろん、父の言葉も肝に銘じています。

 何カ月もしない内に、久しぶりに揃った家族が再び引き離されてしまい、父は再び労働教養3年の判決を下されました。こうして3年が終われば、また3年の判決を下されて、今までに父はすでに8回も拘禁されました。大学入試の時、父はまだ刑務所の中で、入試に支障が出るからと母に面会に行かせてもらえず、電話のみでした。

 高校3年の最後の学期では、成績が学年トップ10に入っている生徒たちとの競争が非常に激しく、私もだんだんと点数に執着するようになり、学法時間がますます少なくなっていき、闘争心や嫉妬心が相次いで現れ、勉強も苦しくなり成績も上がらず、毎日ストレスで全く眠れませんでした。もっとも苦痛な時、私は突然、大法の書籍を読みたいという強い感情が出てきました。その後は、毎日法を学んでから学業に取り掛かるようにし、他のことは一切考えないようにしました。人の一生はすでに按排されていると理解しているので、成績や結果に執着しなくなったことで気持ちもずいぶん楽になりました。そして、間もなくして、1位という素晴らしい成績で有名大学に合格しました。

 母は迫害により死亡

 母は2007年から大法を学び始め、それから私たち一家は皆佛法の恩恵に恵まれています。私は何年間か名利や情の中に陥ったことがあり、修煉が疎かになったものの、幸いにもそこから抜け出すことができました。しかし2014年、家庭に激変が起き迫害により母が亡くなったのです。その後、2015年に父が再び拘禁され、未だに釈放されていません。

 母が亡くなった後、私は父と二人三脚で生きてきました。母を失った傷心により、1年間ほど無駄にしてしまいました。父が再び拘禁されて誰もいなくなった我が家を目の前にして、とても耐えられないほどの苦痛と絶望感が一気に押し寄せてきて、リビングの床に座って大声で泣きました。まさに生き地獄です。その時、苦痛の中で一生を終えるか、大法を取り、執着心を取り除いて再び精進するか、この二つの道しか自分には残されていませんでした。幸いなことに、私は後者の大法修煉の道を選びました。

 佛法の恩恵の下で成長する

 家族がバラバラになり、親を失ってもなぜ法輪大法を諦めないのかを不思議に思う人はたくさんいるでしょう。なぜなら、今まで奇跡と呼ばれるような経験は少なくないからです。

 例を上げましょう。高校2年の時、昼休憩にご飯を食べに家に戻ろうとして、自転車を押しながら横断歩道を渡っていました(昼休みは学校から出ても構わない)。突如、赤信号にもかかわらず横から猛スピードで走ってきた車に自転車ごと吹き飛ばされました。体が宙に浮いた気がしたかと思った次の瞬間、地面に叩きつけられてしまいました。はっと気づいた時、真っ先に頭の中に浮かんだのが「自転車は大丈夫かな」ということでした。経済条件があまり良くなかったので、自転車が壊れるとお金を出して修理しなければなりません。自分の体より自転車の事しか頭になく、慌てて自転車を探すと車輪が曲がっていましたが、修理できそうなどでほっと安堵し、自転車を起こしてそのまま帰ろうとしました。顔を上げた瞬間、周りに警官やら通行人やら人だかりができていることに気づきました。そして、運転手に賠償要求と病院に行くから保護者に電話をするようにと言われました。私はすぐに師父の説法を思い出し、師父が守ってくださっているから大丈夫だと信じていたので「なんともないから大丈夫です」と答えました。その場で体を見ると、顔と肘、膝に擦り傷があっただけで大した怪我ではありませんでした。「あれだけ高く飛ばされたのに大丈夫なわけないでしょ」と目撃者たちが言い、運転手も「病院まで付き合うよ」と言いましたが、私は「大丈夫です」を貫き家に帰ろうとしました。結局、警官がいたため、自転車の番号と事故を起こした相手の車両番号を記録してから、やっと帰してもらえました。それから、家で昼ご飯を済ませ、何事もなかったかのように自転車を漕いで再び学校に向かいました。

 法輪大法を学んでから、師父は良く別空間の光景を見せてくださいます。それは非常に美しく、かつ神聖な光景です。ですから、私は始終何があっても、どんなことに遭遇しても、固い信念をもって大法を固く信じています!!

 大法への迫害が始まってからすでに17年が経過しました。私の家族は迫害により崩壊し、肉親を失いましたが、幸いにも師父が常に見守って下さっていますので、私は何事もなく、佛法の恩恵の下で成長して今までやってこれました!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/12/6/331555.html)
 
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