若い大法弟子の 「新生」
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文╱中国の大法弟子 梅

 【明慧日本2017年5月12日】私は修煉をしてまだ半年足らずの若い大法弟子です。母は古い同修です。

 小さい時、母はいつも私に大法の書籍や師父の新しい経文を読むように促し、功法も教えてくれました。心の底では「大法は素晴らしい、人間の一生は修煉すべきだ」と分かっていながらも、遊びに夢中になり、常人の名誉や利益に心を奪われ、その上、大法弟子が残虐な迫害を受けているのを見て、とても怖くなり、修煉に入りませんでした。母に対する情が重いのは私の性格のせいかもしれませんが、途中で何度も修煉を始めようとしましたが、いずれも人心に妨げられ、修煉は苦しく難しいと思い、とうとう修煉の道に足を踏み入れませんでした。

 時には、母の振る舞いから母の人心が見え、「どうしてまだこうなの? 随分長く修めたのに、この程度なの、駄目じゃない」と思い、甚だしきに至っては、怨恨心、闘争心に駆り立てられ、母に「お母さんはこんな修煉状態なのに、よく私に修煉を勧められるね」と反発して、まるで他人のために修めるような言い方をしました。その反抗的な心理から実に多くのチャンスを逃しました。師父は私の口を通して母に気付かせてくださったのは確かなことでしたが、しかし、一方、私も自分の人心や執着心に気づくべきだったと今になってやっと分かりました。

 その後、大学に進学し、就職し、今の社会の環境の中で、私は常人の泥沼に陥り、自ら抜け出せず、利益のために闘い、情のために悩み、自分で自分を苦しめました。幸いなことは、心の底にある真・善・忍に対する渇望が、暗闇に一筋の明るさを放っており、私は微かな暖かさを感じ取ることが出来ました。たまには師父の説法録音を聞いたりしましたが、しかし、同時に「あなたは大法から求めるばかりで、知っていながらわざと過ちを犯し、大法を学ぶ資格はない」という声が聞こえました。その後、それは旧勢力の按排を認めたことで、正念が足りなかったことだと分かりました。

 慈悲なる師父はずっと私を見捨てられず、いつも夢の中で気付かせてくださいました。その後、実家の近くの町に転職し、心から、もし同修に出逢えればいいのにと願いました。慈悲なる師父の按排により、2016年9月、私は2人の真相を伝える同修と出会い、2人の年配の同修から、大法弟子の素晴らしい資質を見ました。その後、私はいつも母から法輪功の資料や『明慧週刊』を持ち帰りました。

 同修と連絡が取れた後、同修から法を学ぶ時、足を組んで両手で本を持ち、それは師と法を敬うことだと教えられ、そして、発正念の重要性や、真相を伝え、人を救うことは歴史的な使命で、大法弟子の責任であることを教えられました。

 昨年の末になって、やっと本格的に修煉を始めました。最初に発正念をした時、夜12時に起きられず、その後、思い切って12時の発正念をしてから寝るようにしました。しかし、時には睡魔に襲われ、あるいは心が不安定な時、アラームが鳴っても聞こえませんでした。これは常人の観念による正念の不足だと分かりました。

 最初に座禅をした時、30分しか足を組めず、足が痛くて、骨まで痛くなりました。だんだんと音楽が終わるまで足が組めるようになりました。これは一つの進歩です。これからも、もっとしっかり行いたいと自信を強めました。

 次に、修煉してから遭遇した心性の関門について話します。

 以前、常人のテレビや映画に夢中で、毎日多くの時間を費やしました。法を学んでから、常人のテレビは人の様々な欲望、名誉心、利益心、情、色欲の心などを引き起こすものだと分かり、私は携帯電話から動画アプリを全部削除して、封鎖を突破するソフトをダウンロードして、毎日同修の素晴らしい交流文章を読むようにしました。いつも同修の文章に心を打たれ、涙を流し、同修達は本当に凄いと感心しました。

 ここで、明慧ネットのプラットフォームと同修達の素晴らしい文章に感謝の意を表したいと思います。それによって、私はいつも励まされ、自分の不足を見つけ、自分のよくない一面を正すように促されています。

 2日前、同修が書いた文書の中に、「他人は常に自分の鏡である」との文章を読みました。その通りだと思いました。仕事の中で、常人は自分の鏡になっているだけでなく、同修の間でも、同修の振る舞いも自分の鏡になっており、お互いに照らして、自分を修めなければならないと思いました。師父は「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[1]とおっしゃっています。毎回トラブルに遭った時、外に向けて見れば、常人の思惟によって問題を外に押し出してしまうので、それは利己的な行為で、慈悲ではないと理解しました。

 色欲の関門について話します。私は結婚適齢期になっており、結婚するかどうかの問題に直面しています。修煉する前、気が合う常人と結婚し、幸せな結婚生活を送ろうと願っていました。そのため、何度もお見合いに立会い、そのうち、常人の彼氏と付き合いました。しかし、今の若者の考え方や行動に耐えられず、汚すぎると感じ、彼に別れを告げました。

 今から考えれば、慈悲なる師父はこの欲望の底知れぬ深淵に陥らないようにずっと私を導いてくださったのでしょう。もし、そこで過ちを犯して、常人に引きずり込まれてしまえば、これからどうやって修煉できるだろうとぞっとしました。私はこの汚い執着心を取り除こうと決心し、明慧ネットで同修が書いたこの方面の体得をたくさん読むようにしました。その後、気持ちも次第に明るくなりました。

 続いて試練がやって来ました。常人のAさん(以前付き合ったことがある)から電話が来て、やり直したい、私に嫌われた所を全部改めると言いました。私は直ちに断りましたが、しかし、彼に対する怨みを放下できませんでした。なぜなら、彼との付き合いは私の汚点だと認識し、常人と付き合うべきでないと考えていたからです。その後、法を学ぶことによって、自分の闘争心、怨恨心、色欲の心を見つけ、内に向けて探せば、常人も可哀想だと感じ、最終的に彼に対する怨みを放下しました。

 その後、彼はまた電話をかけて来て、会って話したいと言いました。私ははっきりと断り、そして彼に幸せな結婚をするようにと祝福しました。この関門をやっと通り抜けたと思った途端、週末に常人のBさん(以前お見合いをしたが、連絡をしていない)からも電話がありました。彼は私と付き合いたいと言って来たのです。私はすぐに冷静になり、これも試練だと分かり、はっきりと断りました。

 電話を切った後、歓喜心が浮かんできました。その瞬間状況が変わり、Bさんから再び電話が来て、普通の友達として付き合いたいと改めて言って来ました。私は自分のよくない心に気づき、彼にはっきりと説明しました。このことを通して、自分の名誉心、利益心、色欲の心、怨恨心、歓喜心などを見つけました。これからきっとよく法を学び、この良くない物質を取り除きたいと思いました。

 修煉してから、これから歩む道はすべて師父が按排される道となり、それは最も素晴らしい道だと分かりました。毎回結婚したいという考えが芽生えた時、私は師父のお言葉「求めずに自ずから得る」[2]を思い出し、自分に注意を促すようにしました。

 最近、あることが起きました。数日前、会社の上司は彼女の友達と一緒に食事するようと誘ってきました。私はそれを断れず、ついて行きましたが、心の中では、自分の生活リズムが邪魔され、学法煉功も邪魔され、時間の無駄だと愚痴っていました。食事中、彼女たちはお互いに競い合って、名誉や利益の話ばかりして、本当につまらないと彼女たちを見下しました。

 最後、タクシーを頼んで上司を見送ってから、家に帰って来たのはすでに夜の9時過ぎでした。私はとても落ち込みました。その気持につられて、その後の2日間元気がなく、喪失感で一杯でした。この上司のせいで、最近、定時に退社ができず、法を学ぶ時間が少なくなり、しかも法を読んでも心に留まらず、自分を探さなければならないと分かっていても、単に我慢しなければならないとか、他人のために考えなければならないとか、上司を怨んではいけないという段階に留まっていました。明慧ネットで同修の「他人は常に自分の鏡である」の言葉を見た時、やっとはっと悟りました。自分はやはり外に向かって探し、真に自分を修めていない事に気づきました。そして、すべての良いことも悪いことも全部自分の心性を高めるために按排されたことだと分かりました。そして、自分の名誉心、利益心、顕示心、嫉妬心、闘争心、怨恨心を見つけ、同修と比べればまだまだ差があることに気づきました。とても焦りました。しかし、焦る心も駄目だと分かりました。同修達も一歩一歩で修煉してきたわけで、近道はなく、着実に修めなければならず、常人でも「急がば回れ」と言っていると悟りました。

 修煉して数カ月、私の心身ともに大きく変化しました。トラブルに会えば、まず冷静になるようになり、時には無理に我慢していますが、他人のために考え、自分を探し、自分のどの心に向かって来ているかを考えるようになりました。そして、その人心を探し、認識し、取り除くようにしました。話すのは簡単ですが、心が動じないでやり遂げることはまだまだ難しく、時には心をえぐるような辛さもありました。

 師父は「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[3]、「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」[4]と説かれました。

 新しい修煉者として、同修達との差はあまりにも大きいと分かっています。しかし、自分の僅かな体得でも、やはり書き出したいと思いました。師父が巨大な犠牲を払われ、本日を引き換えてくださったことに感謝します。この駄目な私を見捨てられず、私を地獄から、泥沼から救ってくださった師父に感謝します。

 ここでは、昔の子供弟子に伝えたいです。大法弟子の家に生まれたことを選択した私達は、くれぐれもこの千載一遇の機会を逃さないようにしましょう。常人の社会に心を奪われないよう、正念で目を覚まし、怖がらないで、心配しないで、迷わないようにしましょう。法を正す期間が終わらなければ、それはチャンスです。この機縁は万古にも巡り会えないものです。

 くれぐれも人心に妨げられないようにしましょう。私達がこの世に来た大きな願望を忘れないように、「帰りましょう、帰りましょう、衆生はあなたを待っている」の歌のように、私達の本当の家を忘れないようにしましょう。これから、ただただ多くの法を学び、三つのことをしっかりと行い、師父の慈悲なる済度に背かないようにしたいと思います。

 認識には限りがありますので、法に則っていない所があれば、同修達の慈悲なるご叱正をお願いします。合掌。

 注:
 [1] 李洪志師父著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」
 [2] 李洪志師父著作:『シドニー法会での説法』
 [3] 李洪志師父著作:『轉法輪
 [4] 李洪志師父著作:『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/30/346416.html)
 
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