我が人生の奇遇(思いがけないめぐりあい)
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文/黒竜江省の大法弟子

 【明慧日本2017年6月5日】私には「デカ尼ちゃん」というあだ名があります。けれどこのあだ名で呼ばれたくはありません。後になってから、このあだ名には由来があることを知りました。

 一、7銭で命を救ってくれた 大きなお婆ちゃん

 母が言うには、私が生まれた年は家計が非常に苦しく、父も家にいないため、私を産んだ母はすぐに病にかかってベッドから降りられなくなりました。お金がないのでもちろん私の世話どころではなく、その上、私は産まれた時から泣き声を上げないので、死んでいると勘違いされるほどで、母も悔しい思いをしていました。母は私より10歳年上の姉に私を捨てるように言いつけましたが、姉は母の世話で1日中忙しかったため、夜になると疲れてすぐに寝てしまいました。

 こうして7日目になり、家に背の高い見知らぬお婆ちゃんが訪ねて来たのです。親戚を尋ねに来たというこのおばあちゃんは私の事を村の人から聞いたのでと、会いに来ました。母は喜んでお婆ちゃんを家に招き入れました。お婆ちゃんは私を一目見て、「どうしたんだい、この赤ん坊は?」と驚いたので、「生まれた時から泣かない子なのよ。お乳も吸わないわ。娘にこの子を捨てるように言ったんだけど、あの子ったら夜になると疲れて眠ってしまって、結局捨てられなかった」と母が答えたそうです。

 大きなお婆ちゃんは私を見て、「かわいらしい子だね。薬を飲ませれば大丈夫さ!」と言いました。そして、お金がないと答えた母にお婆ちゃんは、「ここに7銭あるから、これで薬が買えるよ」と言い、7銭で薬を買ってきて少しずつ私に飲ませました。

 こうして、お婆ちゃんは毎日家に来ては私と母の世話をし、1カ月ほど続きました、その後、私の様子が正常になり、母の病も治りました。私も母も元気になったので、お婆ちゃんもそれっきり姿を現さなくなったのです。

 村中でお婆ちゃんの事を尋ねましたが、誰もこのお婆ちゃんの事を知らず、姿を見たこともなかったそうです。このお婆ちゃんの恩を忘れないよう、母は感謝の気持ちを込めて、村の名前である「尼村」という名にちなんで、私に「デカ尼ちゃん」というあだ名をつけました。その後、私たち一家は引っ越しましたが、それでも何度か村に戻ってお婆ちゃんの事をあちこちで聞きました。けれど、このお婆ちゃんを見たことがある人は誰ひとりいませんでした。

 母の話を聞き、まるで物語に出てくる人のようなあのお婆ちゃんは一体誰で、どこに行ったのかを今でも知りたくて仕方がありません。

 二、神様の仕立て職人

 幼いころから病弱の為、学校に通った事がなく、冬は焚火(たきび)の周りに集まって母と祖母の話を聞いていました。20歳を過ぎたころ、姉が開いている服飾店で手伝いを始めました。それから、あっという間に何年かすぎ、姉が結婚し、私が代りにこの服飾店を管理するようになりました。

 その後、不思議なことが何度か起きました。私は流行のファッションを作ることができず、ただ簡単な服やズボンを仕立てる事しかできませんでしたが、姉がお店からいなくなった後、顧客に満足してもらえるよう真面目に努力しました。ある日、ある顧客が制服を仕立ててほしいと依頼に来ました。当時は制服の着用が流行でした。私は制服を作った事がないのですが、その依頼を引き受けたのです。真剣に心を込めて制服を仕立てて顧客に見せたところ、とても満足してもらったので、それからは大胆になり、何でも引き受けるようになりました。

 ある日、ウェディングドレスとドレススーツの制作依頼が来ました。私はこれまでスーツなど一度も作った事が無く、ポケットの縫い方もわからないまま、調子に乗って引き受けてしまいました。けれども、引き受けてすぐに後悔したのです。急ぎの依頼である上、うまくできるという自信もないため、夜、家にも帰らずにどうしようかと考えていました。

 冬の時期で、部屋の中は非常に寒く、手足も完全に冷え切っていました。その頃は石炭を燃やして体を温めていたので、石炭を買いに行こうと思いました。けれども、市場の石炭売りの店長は、私が2袋しか買わないと知り、あまりにも少ないと売ってくれませんでした。仕方なく家路へと歩いていると、どこからかお爺さんが「お嬢ちゃん、わしが2袋売ってやろう。ついてきなさい」と近寄って来ました。

 こうして、お爺さんの後をついて行き、角を曲がって裏道に入ったときにこのお爺さんは、まさか不審者ではないだろうかと不安になり、少し離れて台車を押しながら歩いていました。どれくらい歩いたのか、「ここじゃ」と目的地に着いたらしく、お爺さんは袋を持って石炭を詰め始めたのです。手伝おうとしましたが、「服が汚れるから、部屋の中で暖まってきなさい」と言われたので、少し先の家に入りました。

 家に入るなり、私は目の前の光景に驚愕しました。まさかこの平凡な家にこれほど高級で上品な衣装がびっしりと並んでいるとは夢にも思わなかったのです。全てスーツで、素材も最高級と言えるものばかりでした。

 私が唖然としながら目の前の服をじっと見つめていると、お爺さんが入って来たので、私は慌ててこれらの服は一体だれが作ったのかを尋ねました。「全部わしが作ったものじゃ。習いたいかい? 習いたいならわしが教えてあげよう」と言われたので、私は喜んで頷きました。こうして、私はお爺さんの弟子になり、ポケットや裏地の縫い方など、わからないところをすべて教わりました。これで引き受けた仕事は難なくこなせると思い、気持ちがパッと一気に明るくなりました。

 お爺さんにお礼を伝え、石炭を載せた台車を押しながら家に戻り、すぐにドレスコートやウェディングドレスを作成しました。もちろん、顧客は非常に喜んでくれました。肝心な時にまるで神様に出会ったかのようで、自分の幸運に感謝しています。まさに夢の世界のような出来事でした。

 後にこのことを姉に伝えたところ、「そんな場所なんてもとからないわよ。もし、そんなところがあったら有名にならないはずがないじゃないの」と言われ、私も何度かお爺さんを探しに行きましたが、まるで最初から誰もいなかったかのように、お爺さんの行方は全く分からなくなりました。

 三、この身に起きた大法の奇跡

 これまで出会ってきた奇遇や不思議な出来事は、全て定められたものであることを、大法を学んでから理解しました。私は今40代になり、大法を修煉してすでに10年以上になります。人は一体どこからやってきたのか、また、なぜ人間界に降りてきたのかを大法を通じて理解しました。私の人生は、幼いころからずっと苦難に満ちており、生きていることに困惑と疲れさえも感じていました。しかし、それでも、ずっと神様に守られていたのです。

 漢字が読めなかったので、『轉法輪』を手に入れてすぐ、「この本は素晴らしいという評判よ」と言って夫に読んでもらいました。初めの頃、夫は喜んで読んでくれましたが、機嫌が悪い時は全く読んでくれなかったので、私は焦りながら何度もページを捲(めく)ったり、前のページに戻ったりしていました。

 ある日、本を読んでいる途中で疲れてそのまま眠ってしまいました。どれくらい寝たのかはわかりませんが、目が覚めた時、なんと漢字が読めるようになっていたのです! 漢字が読めるだけでなく、『論語』も暗唱できるようになりました! 天にも昇る気持ちになった私は、「もう読んでくれなくてもいい。自分で読めるようになった」と夫に伝えました。信じなかった夫に本を読み聞かせると、彼は不思議だと感嘆し、心の底から大法の素晴らしさに感心したのです。

 法を勉強し、煉功を始めてから、幼いころから病弱な私は元気になり、昔の病がすべてなくなりました。歩く時もまるで誰かに背中を押されているようでした。この身で大法の素晴らしさを実証し、助けて下さった慈悲で偉大な師父に、感謝を申し上げます。

 1999年7.20に江沢民はまるで発狂したかのように、法輪功を迫害し始めました。私と同修は大法の素晴らしさと、師父の無実を実証するため上京しました。当時、2人の息子はまだ幼く、経済的にも余裕がなかったため、夫に内緒で人から200元を借りました。北京に行くためのチケットの代金さえ借りればいいと、帰りの事など全く考えずに、同修と北京までやって来たのです。

 北京に到着した時、すでに日が暮れたので、宿を探してとりあえず一晩過ごそうと考えましたが、どの宿も料金が高く、とても泊まれませんでした。安い宿を探そうと道端でうろうろしている時、どこからともなくやって来た人に声をかけられました。宿に泊まりたいのかと尋ねられ、そうですと答えたところ、一晩3元だからついて来るようにと言われました。こうして、私たちはその人に案内され、とある素朴な平屋で一晩を過ごしました。

 翌日、私と同修は天安門広場に向かいました。途中警察官に追われて同修とばらばらになり、「法輪大法は素晴らしい! 師父の無実を返せ!」と大声で叫んだところ警察官に捕まり、他の多くの同修と同じ場所に拘禁され、中には殴られる同修もいました。どこから来たのかと警察官に聞かれましたが、誰も何も答えず、その後、石家庄行きの列車のチケットを渡されました。

 石家庄の駅に着きましたが、私にはもう家に帰るためのチケットを買うだけのお金は残っていませんでした。お腹はすくし、眠気にも襲われていた私は、そのまま待合室のベンチの上で眠ってしまったのです。ぐっすり眠っている時、突然清掃のお爺さんに起こされ、どこへ行くのかと聞かれました。目的地を伝えたところ、その列車ならもうすぐ発車するよとお爺さんに急がされましたが、私はまだ目が覚めておらず、ボーとしていました。私の手を掴んだお爺さんは速いスピードで走りだし、目的の列車へと向かいました。乗り込んだ直後に列車が発車しました。その老人の名前もわからず、老人に連れられて人口の改札口を通る時も、チケットがないのに職員に声をかけられることもなく、こうして一銭もかからず、無事、家に帰りました。

 家に着くと、夫はすでに食事の支度をしてくれていました。後で聞いた話ですが、私が勝手に行ってしまったと知った夫は、帰ってきたら私の皮膚を剥(は)いでやると激怒したものの、私が無事帰ってきたことで素直に喜びを感じ、「うちの嫁は北京に行っても、無事に帰って来たのさ」と人に自慢していたそうです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/12/11/338781.html)