【慶祝513】 私と6人の校長の物語
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文/山東省の大法弟子

 【明慧日本2017年5月19日】(慶祝513明慧特別記事)私は教師です。1989年、私は東北から山東に来てこの学校に就職しました。私は大法弟子として、二十数年来の教育現場での授業と職歴および体得を話したいと思います。

 1人目の校長

 学校では、私ほどの学歴の持ち主はいなかったので、私は校長に重要視されていました。しかし、希望通りにはいかず、いつも教育委員会に決められた私の公開授業の時に、体調が原因でできなくなり、学校に多大な迷惑をかけました。ですから私は与えられた数々の栄誉を断りました。

 私は大学時代に盲腸炎の手術をし、後遺症が残ったため、腹痛でよく気絶していました。開腹手術をして検査した結論は、ひどいノイローゼだと言われました。この病気が私を十数年間苦しめ、卵巣症候群、関節炎、慢性胃炎、頭痛、目の痛みなど、痛くないところは髪の毛と爪だけでした。東北から来た人間なので、慣れていないことが多くあり、体力がついていかない上に、自分の観念に合わないことにぶつかると、他の先生や上司と対立し、学校の人手が足りない時に、私はよく休暇を取って診察を受けに行っていました。あの時はあらゆる面で非常に苦しかったのです。

 年配の校長は残念な表情で「立派な人材なのに惜しいです」と言いました。

 2人目の校長

 1996年6月、私が落ち込んでいる時期に、同僚が1冊の『轉法輪』を持ってきてくれました。私は一気に読み終えて、心が広々と開き「李洪志先生がおっしゃった言葉はとても素晴らしい」と思いました。法輪功を学び始めて間もなく、十数年来の病気が消え、心身に巨大な変化をもたらしました。黄色い顔が健康色になり赤みがさし、悲観的な気持ちが楽観的で前向きになりました。長年心配してくれた身内と同僚は「法輪功は不思議ですね」と言いました。私は今までの人生で感じたことのない軽やかさと楽しさを体験できました。

 師父は私達に、良い人になり、至る所で他人のために考えるようにと教えられました。私は師父の教えに従って実行してきました。法輪大法の輝きは私の家を照らし、私の学校をも照らしています。校長から与えられた仕事を無条件ですべて引き受け、真面目にコツコツと勤務しました。法輪大法の修煉をして健康になっただけではなく、私の知恵も開きました。1998年、私は省レベルの優秀授業栄誉賞を獲得しました。この賞の数はもともと少なく、今まで私達の県市では獲得した例がなく、私が初めて県市の記録を更新しました。

 法輪大法の素晴らしさは私の授業の中にも反映しています。1999年10月、市教育委員会と各中学の校長の四十数人が私の授業をみて、「この教師の授業は、穏やかで、素朴で、人の歓心を買おうとせず、真実かつ自然で、すべての教師が見習うべきです」と評価しました。私達の小さな郷鎮中学校も有名になり、校長はこの上なく喜びました。

 2000年、1人のAランク教師の格下げ定員があり、格下げされると次第に給料も下がります。全てのAランク教師は心配していました。競合演説の前に私は校長を訪ね「私は修煉者で、何をしても他人のために考えるべきです。校長は私を迫害に遭わせないために大変苦労されました。今回、私が格下げを受ければ、校長と教師達は困らなくてすみます」と申し出ますと、校長は真剣に「あなたほどの優秀な教師を格下げするのは、私が許しません」と言いました。話し終えた校長は涙を流しました。

 3人目の校長

 3人目の校長は、江沢民の迫害政策の下で、初期のころ迫害に協力し私を転向させようとしました。ある日、校長は私をぐっと車へ引っ張って連行しようとしましたが、私を動かせなかったため、他の副校長などを呼びましたが、誰1人手伝いませんでした。

 私は帰って来た後、校長を訪ねて法輪功の素晴らしさを伝え、校長の行為に恨みはないと理解を示し、今後学校の大法弟子を守るように話しました。校長は「私はあなたが仕返しに来たと勘違いしていた」とほっとして笑顔になりました。私も笑顔で「私は真・善・忍を修煉していますから」と答えました。

 その期間、私は市レベルの優秀授業賞を獲得し、私の経験が全市で広められました。校長は黙々と私をかばうようになり、大法弟子に敬服しました。

 4人目の校長

 4人目の校長はとても若い人でした。校長は私を信頼して、学校の発展などについていろいろと相談したことがあります。その期間、私は国家レベルの優秀授業賞を獲得しました。私は市の歴史上で唯一の受賞者となり、また記録を更新しました。今回、専門家は私をこのように評価しました。「この教師の学生に対する親和力は、他の教師がなかなか達することができない境地であり、これは教育の技術ではなく、教師の教養です。このような普通の学校で普通の学生たちを、これほど高い学科の素養がある生徒に育て上げたことに驚きました」

 そのため、私達の小さな学校はさらに有名になりました。4年後に校長は出世して喜んで異動しました。

 5人目の校長

 5人目の校長は私に対して厳しく要求しました。「評判の高い教師には更に厳しく要求すべきです」と校長は常に言いました。

 超負荷の仕事に直面して、不平不満を感じる度に、いつも師父の説法を思い出しました。「善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです」[1]。私は校長の大変さを理解し、穏やかな心で仕事を完成しました。学生は「先生は、どうしていつもそんなに楽しそうなのですか?」とよく私に聞きます。私は「法輪功を学んでいるからです!」と答えました。

 私はかつて校長に法輪大法の素晴らしさを伝えたことがあり、大法弟子を守るようにと話しました。

 ある日、学生に法輪大法への迫害の真相を伝えたため、私は人に通報されました。校長は力を尽くして私をかばい、保護者たちも守ってくれました。しかし、私は「上のほうから家財を押収しに来る」と告知された時、泣きました。校長に「この迫害によって、大法弟子と家族にもたらした苦しみは計り知れません。私達は迫害されるべきでなく、迫害を受けたくないのです! しかし、こんなに素晴らしい法輪大法を、私は決して放棄しません」と言いました。

 校長の態度が変わり「泣かないでください、大丈夫です」と慰めました。最後に校長は「今後安全に注意して下さい」と言いました。私は師父の『洪吟』「笑う」(私は笑う 衆生の有望なるを)を頭に浮かべました。

 6人目の校長

 6人目の校長は、前任の校長の異動は私と関連があると断定し、私の授業を停止させました。私は輝いていた名教師から一転して冷遇され、人格も傷つけられました。この校長のやり方に直面して、自分の内心に圧力を感じましたが、私は師父の教えを忘れませんでした。それは内に向けて探すことです。私は校長を恨まず、自分の心の容量をもっと拡大すべきだと、毎日依然として微笑んでいました。以前、私はいつも積極的に校長に法輪大法の素晴らしさを伝えましたが、以前のやり方は今回は通用しないと思いました。大法弟子の真・善・忍に同化する素晴らしさで、校長を感動させたいと願っていました。

 早速、校長の態度が変わって、私は校長補佐となりました。

 1996年から法輪功を学び始め、私の思想境地と教学技術は絶えず昇華していき、学校レベル、県レベル、市レベル、省レベル、国家レベルの優秀授業栄誉賞を獲得したことがあります。上の教学研究員は次のような言葉を使いました。「普通の教師の中の奇跡です」

 大法弟子の慈悲で穏やかな心理状態、無私無我、他人を優先させる高い境地、真・善・忍に基づいて修煉して得られた知恵は、普通の教師の実現し難い一連の栄誉を創造しました。校長は、私が退職する前に自分の貴重な経験を学校に残して、授業の中で活用したいと要望しました。この要求に対して、多くの教師は阻止しようとしました。私が長年歩んできた一歩一歩の難を皆が目にしたからです。同時に整理する作業量も多くて、とても苦労しました。

 このような大きい作業量に直面して、私は躊躇しました。そして心を静めて学法しました。師父は「わたしはこうもお話ししました。われわれ一人一人がみんな内に向かって修め、一人一人がみんな自分の心性から探すようにし、うまくいかなかった場合は、自分に原因を探し、次回はうまくいくように努力し、何をしても人のことをまず考えるようにします」[2]。私は師父の弟子なので、師父の話を聞き、何をする時にも他人のために考えなければならず、苦労など恐くありません。8万字の授業実例と教学経験を含む資料を完成して、学校に渡しました。

 校長は学校を代表して感謝の意を表しました。この「感謝します!」の深い意味は「法輪大法は素晴らしい!」ということだと私は信じています。

 私と6人の校長のストーリは、20年余り続きました。修煉する前の世の中の辛酸、名、利、情の中で個人の利益のためにもがく苦痛があり、修煉した後の幸せと、修煉の道で他人を考える無私無我の洒脱(しゃだつ・さっぱりしていて俗気がないこと)もあります。師父の広々としたご恩を受け、生命が真・善・忍と同化する過程を実践して、同時に多くの人の受益と真・善・忍の素晴らしさを体験できました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/5/8/346779.html)
 
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