文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年6月12日】2012年前に、私は多くの人に「人間は何のために生きていますか?」とずっと問い詰めていましたが、納得できる答えを得られませんでした。
2012年末、私は『轉法輪』の「返本帰真することこそ、人間としての本当の目的です。したがって、ある人が修煉しようと思うと、佛性が現われて来たと認められます」という話に深く引きつけられて、ついに人生の真諦が分かり、毅然(きぜん・自分の信念を貫くしっかりした態度で)として大法修煉の隊列に加わりました。この機会に法理から悟ったわずかなことを述べさせて頂き、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
服装について
今まで、1980年代後半生まれの自分は大法弟子として奇抜な服装を着ず、おへそを出さず、背中も露出しない衣服を着ければ十分に端正だと思っていました。数日前、天候が急にむし暑くなって、私は1枚のデニムショート・パンツを取出して穿きました。通勤途中の車内で、ある男性の同僚が「あなたの今日の服は本当にさわやかですね。あなたを見ていると、私たちまでもさわやかになりました」と言いました。その時はあまり気に留めず、同僚たちと笑いながら時間を過ごしました。下車の時、太ももが座席の取っ手に引っかかり、皮膚が薄く捲(めく)られて一面赤くなりました。あまりにも痛かったので、私はしばらく脚を覆って蹲(うずくま)りました。しかし痛みが引いた後、私は深く考えませんでした。
翌日、帰宅した後、大法弟子である母は私を見て、「あなたのこのズボンは短すぎて、露出が多すぎます。こんなものを着てはいけません!」と注意されました。納得いかない私は「こんなにむし暑いし、皆穿いているよ。大げさに騒がないで」と言いました。話し終えた後に、「ショート・パンツを穿くのはダメ? なぜダメなの?」と少し躊躇(ちゅうちょ・ためらうこと)しましたが、いくら考えても訳が分かりませんでした。
その日の夜、ある年配の同修が来て、私にこう言いました。「あなたは党文化が少なく、観念も少ないわね。しかし、今の世代の若者として言動に注意すべきです。何事も無関心のままではいけません」。
同修が帰られてから私はじっくり考えて、突然、あることに気づきました。「男性同僚の言葉の含みは『ズボンが短くて、さわやかでセクシーに見えるよ』でした。しかし、修煉者の角度から見れば、『セクシー』が正しくなく、色欲の心が含まれています。当時の私は自分が修煉者であることを忘れて同僚と談笑し、結局下車時に太ももの皮膚が捲られました。師父の身だしなみはいつも適切で、見る側を心地良く感じさせています。古代の人も正装を重んじています。適切な身なりは人の正念を起こし、人に尊重されます。師父は『轉法輪』の中ではっきりとおっしゃっています。「また低下した道徳水準で自分の行動を判断し、他人よりましだと思っている人もいます。判断の基準まで変わったからです」。常人はどんな服装でも深く考えずに着ますが、修煉者であれば慎重に考えるべきです。なぜなら、大法弟子が歩む一歩一歩はみな後世に残すもので、大法弟子が道を正しく歩み、人々の清らかで善に向かう念を起こすべきです。多くの事は正しいように見えますが、注意深く大法に照らし合わせてみれば、それが正しくないことに気づきます。ゆえに、修煉においては何事も小さい事がなく、偶然なことがなく、何気ないことがなく、必ず深く考えて常に自省しなければなりません。
ネットショッピング について
私はよくネットショッピングをします。一着の服を買うのに7~8店舗の物を選んで比較し、同じ服であればもっと安い店、割引のある店、評価が高い店、運送保険がつく店、口コミを書けば現金還付のある店を選ぶようにしています。時には、一着の服を買うのに何時間もかけたり、数日かけたりもします。その後に以下のことに気づきました。第一に、買い物するには、数箇所のものを見比べる事は常人から見れば至極当然かもしれません。しかし、修煉者が「自然に従う」という理が分かれば分かるように、ものを選ぼうが選ぶまいが、最後的に手に入るのは結局自分と縁がある物だけです。ゆえに、選ぶ際に費やした時間は、師父が巨大な苦痛を払われて引き延ばされた貴重な時間なのです。第二に、新しい服を着て同僚に見せた時、美しくまたはスリムに見えると言われればうれしくなり、品質が悪そう、または高く買ったと言われれば落胆し、知らず知らずのうちに自分の顕示心と歓喜心を助長しました。第三に、服を選ぶ過程で、私はモデルが美しいかどうか、気質が良いかどうか、身体のスタイルが良いかどうかなどを評価し、口を修めなかっただけでなく、色欲の心も増長させました。第四に、良い口コミは直接ネットショップの収益に関係します。多くのショップは好評をもらえば奨励の形で現金を還付します。このやり方自体は正しくなく、不正な競争行為になります。しかも、商品の品質がよくないにもかかわらず、数元の奨励金をもらうために良い口コミを書けば嘘をつくことになり、さらに実情を知らない消費者を騙すことになります。大法弟子は宇宙の最高基準である「真・善・忍」を持って自分を律するべきで、これらの行為を行ってはいけません。
ネットゲームについて
修煉前、私は名実ともに「ネットゲームの達人」で、各種のゲームで十数年間遊んできました。当時のゲーム開発商は私を企画活動に誘ったり、装備やゲームコインを与えられ、ただで遊ばせてもらいました。当時の私は自分がすごくえらいと思い、一群の「弟たち」に囲まれてゲーム界の風雲児になり、ゲームに完全に溺れていました。しかし、修煉してからやっと分かったのですが、ゲームは人間をダメにするもので、修煉者ならなおさら触ってはいけない物です。時間を浪費するだけでなく、もっと深刻な結果をもたらします。今のゲームの多くは任務を果たして進級する形を取っています。それらの任務の要求は時には怪獣を殺し、時には動物や植物を殺し、甚だしきに至っては人間を殺すことさえあります。『轉法輪』の中で師父はこのようにおっしゃっています。「宇宙におけるいかなる物質も、宇宙に立ち込めるあらゆる物質も含めて、みな霊的なものであり、みな思想を持っており、みな宇宙の法の異なる次元における存在の形態です」。それなら、ゲームの中の架空の動植物は「架空」ですか? それらはみな実在するものなのです。それらを殺すなら、殺生に等しいことになります。『轉法輪』の中では、こう書かれています。「しかし一般の生命体を殺害することも軽いものではなく、直接大きな業力を生じます。特に煉功者の場合は、修煉の過程で、異なる次元において少しずつ難儀が設けられていますが、それらはすべてあなた自身の業力、あなた自身の難です。異なる次元のそれぞれに設けられているのは、あなたをさらに向上させるためです。心性が向上しさえすれば、乗り越えることができるのです。しかし突然こんなに大きな業力が生じたら、どうやって乗り越えるのですか? あなたの心性では、とうてい乗り越えられないので、それによってあなたはまったく修煉できなくなるかも知れません」。修煉者は殺生してはいけません。では、ゲームの中の一つの任務を完成するのにどれだけの生命を殺しますか? 1時間遊べばどれだけの生命を殺しますか? 1日遊んだらどれだけの生命を殺しますか? じっくり考えてみれば、ゲームはどんなに恐ろしい結果をもたらすことでしょうか!
「騙し写真」について
最近の多くの智能系ソフトウェアは写真の中の人物を美化することができます。目を大きくしたり、皮膚を白くしたり、さらに細身にしたり、背を高くしてくれたりします。美化された後の人物は完璧と言っても過言ではなく、時には自分も自分を見分けられません。この類の写真はネット上で「騙し写真」と称されています。
このような写真を友達に送ったとき、「皮膚がきれいだね」と褒められればウキウキして、甚だしきに至っては習慣になってしまい、構図に少し修正を加えないと他人に送れなくなりました。修煉後、このような写真を他人に送るには、ただ褒め言葉やお世辞を聞きたいだけで、知らず、知らずのうちに名を求める心を助長させたことを知りました。しかも、修正が加えられた写真はすでに本物ではなく、自分の映りではないので、他人にこのような写真を見せれば嘘を言っていることと同じではありませんか? 常人の話では、「写真詐欺師」です。大法弟子がこのようなことをすれば、さらに大法の要求に背くことになり、真を実行しておらず、大変な誤りなのです。
私は歌を歌うのがとても好きで、数千曲の流行歌を歌うことができ、アルバムを出してお金を儲けたこともあります。ある日、1人の同修が私の家に置いてあるアルバムを見て、「これはあなたが歌ったものですか?」と聞かれました。私は「そうです。1枚プレゼントしましょうか」と言いました。同修は頭を振って、「要りません。正法は最後に近づいているので、自分の道をしっかりと歩んで行きましょう!」と私を諭しました。
「私は邪党の歌を歌った訳ではないので、問題はないだろう」と考えていました。
その日の夜、私はある夢を見ました。私は幼少期に住んでいた古い家に戻りました。私の寝室は客間でもありました。当時、母は修煉を始めたばかりでした。客間に、師父の写真が掛けられていて、写真の下にソファーがありました。夢の中で私はテーブルの片付けをしていて、ふっと気づいたら、ソファーにあるおばあさんが座っていました。玄関のドアを開けていないのにと思いながら、なぜかそのおばあさんが師父である気がしました。私はおばあさんに「あなたのお名前は?」と聞きました。おばあさんは笑って何も答えませんでした。私は「あなたの苗字は李さんですか?」と聞きたかったのですが、口にしたのは「あなたはどこから来られましたか?」と聞くと、おばあさんはニコニコして、私の頭上の壁(壁の向かい側は師父の写真です)を指さして、「私はあそこから来ましたよ! 『洪吟』を暗唱して聞かせて、大法の歌を歌ってごらん」と言われました。私は頭の中が真っ白になり、おばあさんの暗示で『優曇華の花が咲いた』を少し歌いました。
その時、目覚まし時計が鳴りました。目が覚めた後、私は夢を思い出して、師父が私に『洪吟』と大法の歌をすらすら暗唱したり、歌えるようにと教化されていることを悟りました。
翌日、私は夢のことを母に話しました。母は「師父はあなたをテストされています」と言いました。
数日後、ある同修からこのようなことを聞きました。先日、数人の大法弟子が真相資料を配りに行って、帰りに道端の野草がほしいと思って掘りに行き、結果、真相の知らない人に濡れ衣(ぬれぎぬ)を着せられ、不当に連行されました。同修は「事をするには、必ず一心にしなければならず、何事もやるべきことに集中すべきです!」と諭されました。「一心」の2文字が私の脳に入りました。『轉法輪』では、こう書かれています。「修煉は、昔から『不二法門』のことが重んじられており、本当にこの法門で修煉しようとするならば、この法門の経だけにしてください」。大法弟子が一心に修煉したいなら、各方面で注意すべきで、法輪大法の本だけを読むだけでなく、歌も法輪大法の歌だけを歌うべきです! それに、常人が書く流行歌には作者自身の情報が付いていて、私たちが聞いたり学んだりすれば、それを求めているのではありませんか 。大法弟子として、常人の歌を聞くべきではありません。修煉の各方面において「一心」にやり遂げなければなりません!
謙虚さについて
ある日、母と一緒に学法していて、母に読み間違えたと言われて文を読み直して見ると、自分が間違っていなかったことが分かり、「母がきっと上の空になっていた」と心の中で思いました。読んでいくうちに、母はまたも私の読み間違えを指摘されました。私は今回も間違っていなかったことを確認した後、「読み間違えていなかったよ。お母さんこそ、何回も指摘したことは間違えだったよ」と小声でつぶやきました。母は急に態度を変えて、「他人があなたの誤りを正す時、時には本当にあなたが読み間違えたかもしれないし、時にはきちんと聞き取れなかったかもしれない。でも、あなたがこんな態度を取るのなら、今後、一切指摘しませんよ」と言われました。
私は悔しく思いましたが、我慢して何も言わず、心の中でこう考えました。「大法弟子は怒ってはならない。我慢すべきだ」と、でも、心中穏やかではありませんでした。その時、「謙虚」の2文字が脳裏に現れました。私は心を静めて内に向けて探しました。グループ学法のとき、私は声がとおり読み間違えがほとんどなく、同修にいつも褒められて自分自身も良いと感じていました。他の同修の読むスピードが遅く、読み間違えもよくあるのを見て、訂正する際の自分の声もぎこちなかったのです。時には、他の人の抑揚のない読み方が子守歌のように感じることに不満をもち、時には年配の同修たちの交流内容が前回と大差がないと感じて耳に入らず、「長々と話してもいつも同じ内容ではないか」と思い、時には同修たちが明慧ネットの交流文章に言及すると、「私はあなた方よりもっと多くの文章を見ているわ」と思ったりして、これはどんなに傲慢な心でしょうか。言い習わしに、「帯に短し襷(たすき)に長し」ということがありますが、私はまさにこの半分の状態ではありませんか? 博識な人であればあるほど、もっとへりくだって謙虚、謙遜になりますが、「半分の状態しかならない」人は却って、自分が多くのことを知っていると思い自負しやすいのです。
師父はいつも構えがなく、誰にでも慈悲深くて優しく、たとえ無礼なことをされても気に介さず、常に微笑んで他人に接しておられます。しかし、自分はほんの少しの法しか学んでおらず、ほんの少しの法理しか悟っておらず、「半分」にも及ばないのに、ただ単に法を少しよく読むだけで自慢になってしまいました。目は常に同修の短所を見ていて長所が見えず、本当に恥ずかしくてなりません。
褒め言葉を求め、褒めを急がすことについて
「この件はすごくややこしくて、あなたのこの件を成功させるために、かなりの精力を込めてやりました……」、「あなたにおいしいものを食べさせようとして、この料理をすごく工夫して、多くの手間を掛けて作りました……」、「あなたに快適な環境を提供するために、掃除していて腰も上がらなくなりました……」。これらの褒めを急がす話は、ほぼ私の習慣になってしまい、毎回仕事を終えると必ず夫に一度言って、夫から「ご苦労さん!」と言われると、ようやく心地良く感じます。
ある日、普段通りに仕事を終えて、夫にいつもの褒め言葉を求めると、帰ってきたのは怒りでした。「お前は毎回毎回仕事を終えると、必ず褒め言葉を聞きたがるが、そのために仕事をしているのか!」。彼の叫びに私ははっとなって、寝室に戻ってこう考えました。「私は何のために褒めを急がしているのだろうか? 褒めを急がし相手からの賛美を期待し、感謝されたいと思っている。時には相手から反応がなければさらに事柄を誇張し、相手のために自分が多くの犠牲を払い、相手を大事にしていることを感じてもらい、実際のところ、本心は相手からもっと良くしてもらって、ようやく心のバランスが取れる。他人のためという名目を掲げて、実質は自分の名利を追求する心、心のアンバランスを穴埋めしようとする心を満足させていた。これはなんと汚い心だろう? 大法弟子は世人を哀れみ、真心から世人のために思い、いかなる報酬も求めないはずで、「褒めを急がす」ことなどはなおさらしてはいけません!
師父は何回も「修煉は厳粛です」と言及されています。修煉の中では小さな事はなく、何のいわれもない事がなく、あってもなくても良いという事はなく、「どちらでも良い」事はなく、「ほどほどで良い」という事はありません。一思一念を逃さず、必ず一つ一つを法に照らし合わせ、事柄の一つ一つに法を持って判断しなければなりません。
私を手伝って下さったすべての同修に感謝します! 皆さんが使命を全うし、師父について家に帰ることができるように、心からお祈りします!
合掌