二度生死の関を乗り越えた後の反省--真修について 
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2017年9月26日】

 敬愛する師父、こんにちは。
 同修の皆さん、こんにちは。

 私は法を得て20年になりました。修煉の道で、大きな挫折はありませんでしたが、簡単でもありませんでした。今まで歩んできた道の中で、師父の慈悲なるご加護をいつも心から感じてきました。

 1995年、私は交通事故がきっかけで、無神論者から有神論者に変わり、1997年に大法を得て、大法の修煉に入るための機縁を築きました。2005年にまた交通事故で生死の関の試練を受けました。当時の私は、脊椎に沿って、首から腰まで、二つの鋭い刃物で切り落とされたような感じでした。この激痛でハンドルに倒れ込み、頭だけは動きましたが、身体の他の部位はまったく動かなくなりました。事故が発生してから病院へ搬入された翌朝まで、死神と4回も戦い、とても危険な状態でした。

 その間、師父の「弟子正念足りれば 師は回天の力有り」(『洪吟二』「師徒の恩」)の導きで、激痛に耐えながら、大法の奇跡を感じました。一思一念が法に正され、幸せな涙を止めることはできず、師父に対する感謝でいっぱいでした。翌朝、医師と看護師は座っている私を見て驚きました。私は正々堂々と彼らに法輪功の偉大さを実証しました。大法に対する正しい信念で乗り越えることができ、1カ月後、身体は完全に正常に回復しました。以前は、旧勢力とは何か、人と神の一念とは何か、正念とは何かについて、概念(ある事物の概括的で大まかな意味内容)からの理解しかありませんでしたが、この経験ではっきりと分かりました。真に正念の威力を感じ、法理に対する理解も向上したと感じました。

 その後の10年ほどの修煉のなかで、新唐人などのプロジェクトを通して、誓約を実践し、使命を果たすことを心がけました。心性の向上と同修間の矛盾には正念で対処しました。旧勢力の妨害に直面して、心のなかで、いつも自分自身が隙に乗じられないように注意しました。今日まで修煉を堅持してきて、大きな関はありませんでしたが、小さな関は絶えませんでした。しかし、自分の修煉にますます自信をもつようになり、自負心(自分の才能や仕事に自信をもち、誇りに思う心)も知らないうちに出てきました。

 2014年10月1日の香港でのパレードから帰った後、身体に常人の更年期のような症状が現れました。経血が50日続いて最後に血色もなくなり、身体がとても衰弱し息が詰まるようになって、しっかり立てなくなりました。その間、母と姉の家族が日本に来て、こういう状況なのに病院へ行かないことを、不思議がりました。私は彼らに法理に対する理解と十数年の修煉の経歴を話しました。彼らは私が修煉を堅持しているのを見て、それ以上、プレッシャーをかけませんでした。その間、学法煉功発正念などを欠かさずやりましたが、状況は改善しませんでした。体力も尽きたかのようでしたが、頭は非常にはっきりしていました。「もし今回乗り越えられなかったら、それはきっと自分の修煉に問題があるはずだ」と言い聞かせました。師父の写真に向かって、「絶対に旧勢力の按排を認めません。私の業力であれば消去しますが、妨害されたものなら絶対に認めません。弟子は今の次元でこれしか悟ることができませんが、残るか去っていくかは師父にお任せします」と申し上げました。この念が出たあと、天や神に誓っていると認識できました。もし明朝去って行っても、後悔しないと思いました。翌日目が覚めて、今どこにいるのかと思い、しばらく経ってやっとわかりました。以前の身体の異状がなくなり、経血も止まりました。涙がとめどなく流れました。師父への感謝は言葉にできませんでした。師父は再びチャンスをくださいました。再び師を信じ、法を信じることを実感させてくださいました。これらの経緯を母と家族に話した後、彼らは大法に対しての敬虔と感謝の気持ちがあふれました。

 この2回の生死の関を経験して、自分の修煉についてさらに自信満々になりました。知らないうちに自我が膨張していきました。小さい頃、中国共産党の環境の中で成長してきた私は、修煉の前は独善的な人間でした。文化大革命の中で、父が臭老九(文化大革命中の弾圧対象者)に定められ迫害されました。その迫害が家族にもたらした障害と苦痛は、幼い心に深い傷跡を残しました。小さい頃から人の冷たさと暖かさ、世間の冷たさと社会の不誠実さを感じました。幼い時からさんざん苦を嘗めてきたので、物事を認識することについても自信満々でした。何事も自分で頑張らなければならないと思い、小さい頃から自立の意識が強かったのです。気軽に人を信じることをせず、自分を守る意識や傷つけられないようにという心がさらに強かったのです。だんだんと他人のことを配慮しない人間になりました。修煉の初期、自分はどんな縁で修煉に入ったのか、輪廻転生の中で、自分が誰だったのか見えたので、さらに新しい執着が生じました。

 皆との付き合いも長い時間を経て、誰がどうかもわかったので、観念で物事をみるようになりました。迫害に耐えられず、同修のことを裏切る話を聞いて、自分自身を守ろうと闘争心、恨む心、不公平に思う心、人を軽蔑する心など様々な人心が生じて、周りで何かが起こる度にその心が強くなりました。もともと修煉の中で正念で対するべきなのに、他人のことを「人に迷惑をかけ、邪魔をしているのではないか」と恨むようになりました。

 責任感は自分の人生の理念の中で、とても重要なことだと認識していましたので、物事に責任を負わない人には厳しく当たりました。周りの環境の中で、正でないものに気づいたら、恨みと皮肉が出ました。物事に恐怖心をもって、正義を守る勇気を出さない学習者に文句を言いました。子どもの頃の経歴があったので、行動を伴わない口先だけの人や、党文化の思想を持っている人、文化大革命式に人を迫害する人に対しては、さらに激高しました。学習者間の矛盾からもたらされた障害も、常に自分自身をがっかりさせました。問題が出たら、もともと修煉者としての心と態度で対処すべきなのに、心のなかの不満を旧勢力に隙に乗じられ、まだ放下できていない執着を利用され、矛盾をつくりますます疲れ果て、周りの人にも反発するようになり、見ようともせず、見たくもありませんでした。

 修煉は、前に進まなければ後退します。長い間、積もりに積もった不満を適時に法に基づいて是正しなかったので、ますます多く積み重なり、再び同じ病業の状態が現れました。

 昨年の12月、突然同じような出血が現れました。時間的には前回ほど長くはないのですが、身体に感じる衰弱はさらにひどく感じました。問題の厳重さを認識して、一体自分のどこが間違って悪いのかを考えました。前回の苦痛がまだ記憶に残っていたので、今回同じような現象が出た途端、怖くなりました。もともと前回ほど重篤ではない状況だったのかもしれませんが、学法や煉功と発正念は迅速に現状を変えました。毎日苦痛に耐えながら、突破できると思っていましたが、法理に対する理解は向上していませんでした。

 前の2回の生死の関をどういう心で乗り越えられたのか、どうして今回は同じ考え方で対処しても変わらないのかと内を探すうちに、「各段階には各段階の要求がある。段階ごとに要求が違うから、前回法に基づいて法の理解がはっきりせず、ただ人としての忍耐と単に師父に対する正しい信念しかない。当時はその境地で関門を乗り越えたが、正法修煉の最後に入った今、法に同化していない部分はますます現れ、真に修煉しなければ、新しい突破も難しい」と悟りました。

 私達の修煉の道は、皆師父が按排してくださいました。どの段階でどの次元に達すべきかは、師父の真に修煉している大法弟子への要求です。7.20の後、師父はすべての弟子をしかるべき位置に押し上げてくださいました。「しかし、異なる状況を前にし、功徳(くどく)や心性が円満成就に向かっている中、心性を着実に向上させなければなりません」[2]

 師父は、単に私達のために苦痛に耐えることだけでなく、私達が使命を果たすと同時に、宇宙大法から法理を正しく悟ることを希望しておられます。私は従うことができませんでした。もし、根本から修煉とは何かを認識できなければ、法の内包を悟れず、表面的な関を乗り換えることだけにとどまるなら、今回はうまくいかないかもしれません。

 師父は『二〇一五年米国西部法会での説法』の中で、「あなたのどの執着も、あなたの修煉を台無しにしてしまいます。どの執着もあなたの体に異常を来たし、大法に対する確固たる信念を揺るがしてしまいます。言い換えれば、皆さんに教えますが、誰もあなたたちの修煉の成功を望んでおらず、誰もあなたたちの修煉の出来具合を考慮していません。旧勢力は自身が完成させたいことを完成させているだけで、それだけなのです。具体的に破壊作用を働いた旧勢力、加担して負の作用を働いた旧勢力は皆さんを引き摺り下ろしたい一心であり、何としてもこのことを破壊したいと思っています。なぜならば、旧勢力はこのことの結末を知らないからです。邪悪はほかでもなく邪悪なのです。師父だけが皆さんを修煉を通じて円満成就させようとしています。師父だけが本当の意味でこのことを行なっています」[3]と説かれました。

 私は突然「旧勢力が私の自我の膨張を利用して、同修と隔てさせている。互いに疑い、互いに排斥するなかへ陥れることが最終の目的だ」と気づきました。ここまで考えたら、今までどうしても放下できなかった事に対して、理解し受け入れることができるようになりました。もともと自分が理解できない人に対しても、急に彼らを許すことができ、理解できるようになりました。瞬間的に、自分の容量が大きくなっていると感じました。慈悲についても、もっと実感できました。

 師父は2016年の『ヨーロッパ法会への祝辞』の中で、「一人の修煉者として、修とは自らを修めることです。大法弟子にとって外部からの圧力は試練であり、精進の機会になりますが、大法弟子内部のトラブル、圧力も同様に試練であり、精進の機会になります」[4]と説かれました。

 内を探したとき、この「自我」はもう自分でも意識しにくい程度にまで膨張していたことにやっと気づきました。「自分自身は法に基づいて法を認識することができていない。法に対する自分の理解で、周りのすべてを量っているから、話す言葉に威力がなく、聞いてくれないのも当たり前だ」、「どう話しても聞き入れないと思い、熱心に法に基づいて交流もしなかった」のは、闘争心と名利心であることがわかりました。

 身体上に現れた魔難に面して、自分は魔難の中で耐える一方のように感じました。まるで旧勢力の按排通りに、修煉しているような感じでした。しかし、どうやっても確実に旧勢力を否定できるのか、理解し突破できませんでした。その苦しみは、身体の苦痛を超えました。時々、諦めようかという念が浮かびましたが、まだ使命を果たしていないので、責任を負わなければ犯罪と同じです。毎日、堅持するか、諦めるかの間で正邪の闘いをし、「私は必ず主意識で自分自身を主宰する」という念を堅守しました。しかし、魔難の中、ずっと正念をもつことは本当に難しかったのです。どれほどの忍耐力が必要だったでしょう。このような経過を通して、また新しい悟りがありました。

 私は師父が高い次元へ引っ張ってくださっていると認識できました。正法の修煉が最後の最後に来たのに、私は未だにまだゆっくりとしており、達すべき基準にまだ達していませんでした。ついに、「身体に現れた状況は、最後の最後に、人体から神体への更新の過程であり、正しい悟りでついていかなければならない」と悟りました。

 師父は「大法は宇宙の法であり、生命を成就させるための法です。この法を得たければ、必ず真面目に心を静めて絶えず勉強する必要があり、法をしっかり理解するようにしなければなりません。法の要求に従って身を持し、修煉の人として身を処し、これこそ大法弟子です」[5]と説かれました。

 どの執着も岸にしっかりと縛られた太い縄のように見えます。その執着の一つ一つを断ち切り、切り放していってこそ、出発と回帰ができます!

 適切でないところがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 師父、ありがとうございます。
 同修の皆さん、ありがとうございます。

 注:
 [1] 李洪師父の詩:『洪吟二』「師徒の恩」
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [4] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会への祝辞』
 [5] 李洪志師父の経文:『アルゼンチン法会への祝辞』

 (2017年日本法輪大法修煉心得交流会発言稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/9/20/353968.html)