文/中国の大法弟子 静心
【明慧日本2018年2月25日】幼い時から、とくに男女関係において母から非常に厳しい教育を受けていたため、私は大人しい性格になり、男子生徒に会っても話すことを恐れていました。母と性格が違い、さらに日常茶飯事のように殴られ、罵られてきた私は、母のことが大嫌いでした。
22歳のとき、私は母と一緒に大法を修煉し始めました。毎日、私たちは早起きして煉功し、夜は法を学び、共通の話題ができてから一緒に座れば会話が途絶えないようになりました。しかし、母の厳しさはまったく変わりませんでした。毎朝4時ごろに起きて煉功しなければなりませんが、しばしば暖かい布団から頭を出して窓の外の真っ暗な空を見た時、本当に苦しいと感じました! もし煉功をしに煉功点に行かなければ、その日はずっと彼女の不機嫌な顔を見て、慎重に話さなければならず、彼女の後ろについて煉功しに行けば、一日中彼女の笑顔を見ながらおいしいものを何でも食べることができました。
私と母は一日も欠かさず学法拠点に通い楽しい日々を送っていました。母は学校に行ったことがなく、自分の名前すら正しく書けませんが、学法してから大法の本にある文字が全部読めるようになりました。彼女はずっと煉功を堅持し、邪悪による迫害がもっとも深刻な時も修煉を怠りませんでした。
1999年以降、北京に陳情に行った母と私は拘留、洗脳、差し押さえなどの迫害を経験しました。特に2002年、弟の結婚日が近づく頃、私は洗脳班に拘禁され、母親は留置場に拘禁されていました。家族はありとあらゆるコネを探して、やっと弟の挙式に参列する許可を取ってくれました。挙式の当日、私たちは4~5人の警官に押さえられて弟の式場に入りました。その場にいた多くの人が奇異な眼差しを投げて来たとき、私はとうとう我慢できず、涙が溢れました。「私たちは一体何の間違いを犯したというの? なぜこれほどの大きな屈辱を受けなければならないの?」と思いました。しかし、母は終始微笑みを浮かべながら来場者を見ていました。父は発言する時、声が大きく透き通っていて、式場に響き渡りました。それは師父によるお力だと私は分かっていました。
挙式の後、私たちはまた元の場所に戻されました。当時、常人である父は巨大な圧力を受けていました。両親は同じ会社に勤めていたため、母が不当に連行された後、社内の責任者全員は矛先を父に向け、何度も干渉し、署名捺印を強要しました。あまりにも追い詰められた父は彼らに向けて叫びました。「あなたたちは責任者として、毎日まともなことをせず、無意味なことに精を費やして、庶民の生活を裕福に変えていくことこそが仕事ではありませんか! 日に日に、こんなにきりなく嫌がらせをしに来て、ネズミいらずを家族全員が飲み干したらあなたたちはやっと安心するのでしょうか?!」。3日間で、父の歯はぜんぶ抜けてしまいました。
仕方なく、私たち一家はまもなく別の都市に移り住みました。私はそれらの魔難に耐えられず、一時修煉を放棄しました。しかし、母は大法に対する正しい信念を持ち続けました。私に対して失望し、悲しさと失望を感じつつ、母は何度も私を修煉の道に連れ戻そうとしました。しかし、家に帰る道を永遠に見失った迷子のように、その後私は結婚し子供もできて常人生活を送り始めました。
ある年、私の家の玄関の窓ガラスに2回も優曇華の花が咲きました。2回目に咲いた花は白から緑に変色し、その後灰色になって、終いには黒くなって萎んでしまいました。私は「どうして黒になるの?」と不思議に思いました。母は「これは師父があなたを放棄されたくなく、しっかり修煉しなければ二度とチャンスがないとあなたを悟らせておられるのよ」と言いました。
ついに、師父の慈悲深いご加護と母の激励の下、私は大法の修煉に戻りました。私は母と励まし合って前進し始めました。どんな事に遭遇しても、私たちは必ず座って一緒に内に向けて探しました。そして、私たちはいつも一緒に法輪功の資料を貼りに行きました。時々、私たちは相手を同修だと思わず、ついつい常人の親子だと思ってしまうため、資料を貼る過程で口論し、道端で喧嘩になることもありました。実際、そのすべては人心でした。そのような人心を持って行なってもよい効果は得られませんでした。時々資料がうまく貼れず、資料が下水に落ちて取り出せない時もありました。帰宅後、私たちは一緒に座り、内に向けて自分の人心を探しました。
母の私に対するしつけは至る所にありました。遅ればせながら修煉に戻った私は、まだ多くの人心を取り除いていませんでした。時々、子供を抱っこしながら頬ずりをする私を見て、母は「全部人間の情だ!」と言いました。家で子供に付き添ってテレビを見ていると、いきなり現れた母にまたも叱責されました。週末に子供と外で遊んでいるとき、母は電話で「どこにいる? 何をしているの?」と聞いてきました。「子供と外で遊んでいます」と答えると、母は「まともな事を何もせず、そのまま遊んでなさい!」と言って、いきなり電話を切りました。母は私が正法の進展について行けないのではと心配していると分かっています。しかし、彼女の厳しい監視に嫌気がさして、堪忍袋の緒が切れて彼女に向かって叫び出したときもあり、その後、また後悔しました。なぜなら、私には修煉者ではない状態があまりにも多いからです。これらの事を通じて、私の人心が露出させられました。師父は私にそれらを発見し、取り除くように悟らせておられると思いました。
実は、私は心から母を尊敬しています。彼女は私のショッピングに付き合う際も三退を勧めました。靴を買う間に、店員は三退しました。買った服の支払いを済ませている間、母はまたも衆生の三退を成功させました。母と比べると、私は恐れる心が強すぎて、これも取り除くべき人心だと気づきました。
2015年5月から、江沢民告訴が始まりました。母からこの話を聞いて、私はまたも恐れる心が生じて、以前経験していた恐ろしいことの数々を思い出しました。絶えず学法してから、私はこの迫害を引き起こしたのは江沢民1人だと認識し、なぜ彼を裁判所に訴えないのかと思いました。しかも、修煉者として、真実をより多くの人に知らせるべきです。私は母と一緒に訴状を書きました。その後、父も訴状の署名に加わりました。当初、わが一家が受けた迫害の全過程の情景は永遠に記憶から消えることはありません。父親は1時過ぎまで書いていました。翌日、父親が書いたびっしり詰まった文面を見て、私は泣きたい気持ちでした。父は私と母に付き添って、そのもっとも苦しい時期を乗り越えてきました。「お父さん、本当に感謝しています!」
母に励まされて、私も法輪功の冊子を作り衆生を救い始めました。1冊1冊を完成する度に、私はそのきれいではっきりしている図案や文字を眺めて、自分が宇宙でもっとも正しい事をしていると感じました。私は自分に一つの標準を決めました。私の手から出て行く冊子は精美さ、明晰さ、精巧さ、そして綺麗さを欠いてはいけません。世人は皆、美しくて完全なものを見るのが好きです。私たちの冊子はちょうどこの点に合致しています。色彩が鮮やかで道理に叶い、悪を罰して善を掲げるこれらの冊子はまさに、真の人類文明の描写です。
修煉の道のりにおいて、母という同修に付き添われる福はどの同修にもあるわけではありません。師父はこのように、私を育てながら鞭打つことができる同修をそばに按排して下さいました。私を見捨てずに見守って下さる師父に感謝します。意気地ない弟子はここに跪いて拝みます。
次元に限りがあり、言葉も率直ですので、妥当でない部分があれば、同修のご理解を宜しくお願いします。