「ウィーチャット、テンセントQQを使用しない」ことについて考える
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2018年7月16日】昨日、明慧編集部の文章「すべての大法弟子への注意事項」を読んで、とても焦りました。現在、中国では、ウィーチャット、テンセントQQなどのアプリはすでに各領域に浸透しています。家庭教師をしている私は、普段学生や保護者との連絡、月謝の受け取り、生活費の支払い、友人との連絡など、すべてウィーチャットに頼っているため、私の最初の反応はウィーチャットがなければどう生活したらいいだろか? ということでした。

 この通知を10回ほど読み直しました。ウィーチャット、テンセントQQがまだ使えるような言葉の漏れがないかと見つけようとして、ひいては、まず数日間様子を見て、まだ使い続ける理由を探そうとすら考えました。常人の狡猾な心理で大法修煉に対応してはいけないと分かっていますが、しかし、やはりウィーチャットなどを失うと虚しくて、恐怖でした。

 他の同修と対策を相談しました。普段あまりアプリを使わない同修は、「ウィーチャットがなければ、学生や保護者に電話で連絡すればいいじゃないですか? 月謝も現金でもらえばいいじゃないですか」と言いました。私は面倒だと愚痴りながらも、「そうですね。他の方法もありますからね」と何となく納得もしました。やはり知らないうちに、自分の生活がすでにウィーチャット、テンセントQQなどに相当侵食されているにもかかわらず、それに全く気づいていませんでした。そのため、明慧の通知を読んだ最初の反応は、それを遵守するのではなく、逆に、様々な方法を考えて何とか逃げ道を見つけようとしたのです。自分は真の大法弟子と言えるでしょうか?

 師父は「肝心なときに、わたしは皆さんを人間と決別させようとしているのに、皆さんはかえってわたしについて来ようとせず、一回一回の機会はいずれも二度と訪れないのです」[1] と説かれました。私は悟りました。「この通知が今出たのは、現在の法を正す情勢に合わせたもので、ウィーチャット、テンセントQQなどのアプリに対する依頼心と娯楽心は他の空間ではすでに大きな漏れを形成し、その執着を取り除くべき時がやってきています。人間の次元では、邪悪が中国共産党を操ってこれらのアプリを利用して大法弟子を監視し、盗聴し、すでに多くの必要のない、しかも挽回出来ない損失をもたらした。法を正す情勢の推進に従って、大法弟子全体はこの阻害を一刻も早く取り除かなければならない」。私の頭はすっきりとなりました。

 ある修煉物語を思い出しました。古代、ある師父は多くの弟子を抱えていて、ある日、師父は弟子たちを崖まで連れて来て、弟子に同じようにしてほしいと言った後、自ら崖から飛び降りました。ほとんどの弟子は互いに見合わせて黙って動かず、2人の弟子だけが迷わずついて飛び降りました。結果、2人の弟子は崖の下で師父に会えて、一緒に天に上りました。ですから、法と師を信じることは絶対間違いありません。

 しかし、これらのことが分かったとしても、やはりなかなか決心がつかず、迷いに迷って、アプリを外してまた取り付けました。ある生徒の親はこの2、3日に月謝を支払うことになっているから、ウィーチャットがなければ、この月謝を受け取ることが出来ないのではないか? 他の同僚たちとの連絡もほぼウィーチャットを使っていますし、電話をかけるのが不便過ぎて、私の仕事は影響されないだろうかといろいろ悩みました。

 この時、師父が『スイス法会での説法』の中でおっしゃった、ある博士課程の学生は500匹のマウスを解剖する実験をせず、博士号を取るのを放棄したことを思い出しました。師父は「皆さん考えてみてください。人間はほかでもなく名と利のために、この世で生きています。彼は博士号を取れれば、良い仕事と明るい将来があり、給料ももちろん高いし、常人や普通の人より高いのです。人間はこのために生きているのではありませんか? 彼はこれさえほしがらず、これさえ放棄できます。若者として、これも放棄できるのでしたら、全てを放棄できるのではありませんか? 生死まで放棄できるのではありませんか?」[2] と説かれました。

 そうですね、私が今直面したのは、あの同修が直面した状況ほど厳しくなく、他の手もあるのではないか? 依頼心、利益心、怠惰心などが自分を妨げているだけではないか? 私は放下しない理由があるのだろうか?! と思いました。

 私はすべてのウィーチャット、テンセントQQを削除して、そして、要求通りに携帯電話を工場出荷状態に戻して、気持ちは一気に楽になりました。以前、ウィーチャットが鳴るとすぐに携帯電話を見て、食事の後も、暇があれば、必ずモメンツを見ていて、多くの時間を費やしました。今、携帯電話を持たない子供の頃に戻ったように、とても自由自在となり、もっと法を学ぶことに集中することができ、もっと多くの時間を三つのことに使うことができるようになりました。この時、師父の「伝統に戻れば路(みち)は天に通じる」[3] とのお言葉が脳裏に浮かびました。今回、まさしく伝統の道をさらに一歩邁進したのではないでしょうか?

 急いで書いたものですので、正しくない所があれば、慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「根を掘る」
 [2] 李洪志師父の経文:『スイス法会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『造り直す』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/5/370614.html)