「すべて良いこと」について
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文/河北の大法弟子

 【明慧日本2020年3月14日】師父は「修煉の中で、皆さんは良いことに出会っても、良くないことに遭っても、すべて良いことです。なぜならば、それらは皆さんが修煉しているからこそ、現れたことだからです」[1] とおっしゃいました。

 私たち大法弟子の目の前のやるべき事は、法を実証し、世の人々を救うことです。法を実証する中で、慈悲をもって正しく問題を見ることができれば、法は実証されます。つまり、表面的に起きたことが悪い事であっても、それを悪い事と断定してはいけません。実はそれは、良いこと、良い機会であり、自分の心性を高めることができれば、世の人々に「法輪大法は素晴らしい」と理解してもらうことができ、このような良い結果になります。個人的な理解ですが、これは師父が「すべて良いこと」であるとおっしゃった意味の一部分であると思います。

 例えば、警官が家に来て同修を連行したり、大法のものが押収されたり、派出所に連行されたりすることは、一見すると悪いことのように見えます。しかし、正念をもって問題を見ると、師父がおっしゃった「逆手を取る」[2] に照らせば、「私を派出所に連行したのではありませんか? それならば、私は派出所の中で法を実証し、衆生を救い、発正念をしてこの場所の邪悪を取り除き、真相を伝えて、ここの警官を救います」というように考えることができます。警官を救うことができたら、彼は真相を理解できたので、あなたを釈放し、また、押収した物は返されます。このような過程の中で、あなたが警官を救えれば、それ以降、彼らは大法弟子を連行することはありません。最終的には良いことで終わります。実際の修煉の中で、しっかり行なうことができている同修は、このような過程を経ています。

 しっかりと行なうことができなかった時、派出所の全ての人が完全にはっきりと真相を理解しておらず、再度同修が連行されるかもしれません。そのような時は、派出所の中の人を救うことができるまで、継続して慈悲と善の念をもって同じように行ない、救うことができれば、その現地での法を実証する環境を開拓できたことになり、それ以降、自由に正々堂々と法を実証することができます。

 以下にいくつか例を挙げます。明慧ネットに掲載されている中国の大法弟子の文章『一心に人を救い、師父のご加護の下、神の道を行く』から引用しています。

 「1999年7.20以降、弾圧が始まった頃、中国の邪党の幹部による指示の下で、私は2回にわたり不当に拘禁されましたが、毎回正々堂々と大法を実証しました。これ以降、私は人に会う度に、江沢民たちの悪行を暴露し、行く所どこでも真相を話し、少しの恐怖心もありませんでした」

 「私は農業をする以外に、市場でサンザシ飴も売っています。人を騙したり、悪い物を混入したりしません。むしろ、少ない稼ぎでも人を害すことはありません。私が市場に出ていれば、みんな私の物を買いたがります。そして、私が話す真相も聞きたがります。私がサンザシ飴を作り、売るまでの間は、大法と真・善・忍を実証する時間であり、この過程の中で多くの人を救いました。市場の中で、正々堂々と人を救います。ある同修は安全を考慮し、私にこのような方法で大法の真相を伝えないようにと説得しました。私はいつも、無私であってこそ何も恐れるものはないと思っています。私心、恐怖心を放下し、私たちの心に法さえあれば、衆生を救う上で、これこそ安全なのです」

 「実際、警官は私をとても尊敬しています、いつも私は警官らのことを考えています。私は警官らに『国家主席たるものは、大衆を愛するものです。大きい家、小さい家、全て同じです。私は一人の母親として子供を愛し、夫を愛しています。先生ならば学生を愛すべきです。社長ならば部下を愛すべきです。警官なら人民を愛すべきです。道理は同じです』と言うと、警官は『あんた、安全に気をつけなよ』と言い、私は『大丈夫ですよ、私はあなた達のことを考えているのですよ』と言いました」

 「2009年、現地の20人くらいの大法弟子が捕らえられ、家にいる同修の恐怖心は強く、追跡されるのを恐れていました。しかし、私はやはり、いつも通りに正々堂々と真相を伝えたので、ある同修は私を疑いましたが、私は全く動じませんでした。私が捕らえられたら、そこで真相を伝えるだけのことで、師父が目の前にいらっしゃるのに、誰を恐れるのでしょう、と考えています。同修に、あなたは追跡されていると注意してくれました。私は『恐れることはありません。そうだとすれば、それは師父が私に彼らを救うように按排して下さったことです』と言いました」

 「同修と協力する上で、私は心を閉ざしません。私の家は同修の家であり、私の大きな門はどの同修にも開け放っています。隣村のある同修で、彼女の夫は邪党の虚言の毒害を受け、彼女が煉功することを許さず、気絶するほど彼女を殴りました。彼女は家を出て、同修の家に逃げ込みました。他の人は彼女を留めようとしませんでしたが、私は留めました。彼女と一緒に学法をし、彼女の生活上のあらゆる方面の問題を解決する手助けをしました」

 私が派出所で警官に法輪功迫害の真相を伝えるのは、自分の家で話すのと同じようなものです。しかし、多くの同修からすると、おそらく心配しているのですが、悪い警官によって私が迫害に遭わないか恐れています。これらの同修にも言えることですが、派出所に行き、真相を伝えることができるようになれば、これは一つのとても大きな突破です。ある時、私はある派出所に真相を伝えに行こうとしていた時、ちょうどある同修が私の家に来ました。私は自分の予定を伝えると、彼女はすぐに正念を持ち、私も行きますと言いました。私は心密かに同修の向上を喜びました。

 私たちは果物を売ってから、派出所に到着しました。私は、三退させるためにある警官の所へ行きました。ある年配の警官が私と一緒にいた同修に「あんたも学んでいるのか?」と聞き、同修は「私も学んでいて、この法輪功はとてもいいもので、すべての人にいいです。あなた達にとってもいいものです。国家にとっても勿論いいです。あなたは絶対に江沢民らの虚言を受け入れないで下さい。決して、法輪功に反対してはいけません」と言いました。この年配の警官はすぐに頷きました。ある警官が私に「ばあさん、あなたは私たちが怖くないのか?」と聞かれ、私は「あなた達を恐れていては、誰があなた達を救うのですか」と答えました。警官は私達の慈悲に感動し、なんと、その部所の全員が三退しました。これ以降、この同修と共に警官に迫害の真相を伝えることはとても意のままに進みました。

 派出所に新しい所長が来るということで、私は新任の所長に法輪功迫害の真相を伝え、三退を勧めに行きました。大法の素晴らしさと中国共産党の邪悪さを理解し、とても自然な流れで邪党組織から脱退しました。ある時、私は新任の所長に真相を伝えて、三退をし終えた後、所長は親切にも車で家まで送ってくれました。そして、自分の身体の調子が良くないと言いました。私は「あなたは『真・善・忍』を念じればいいのです。私はもともと十数以上の病気がありましたが、全て念じたことにより、よくなりました」と教えました。この数年の間、1回また1回と迫害の真相を伝え、三退を勧め、ほとんどの警官は私を見かけると、生きた菩薩が来たと言っています。そして手を挙げて、法輪大法は素晴らしい! 法輪大法は素晴らしい! と叫んでいます。

 この同修が言うには「毎回の向上する機会は、もう二度と同じことはありません。修煉は厳粛なものであり、着実に修めたいならば、絶対に自ら殻を突き破らなければなりません。封鎖した心を開け放ち、心から他人のために考えることができるならば、あなたはすでに常人を超えています。あなたが慈悲をもって行えば、相手は退きます。邪悪は善を恐れ、中国共産党は『真・善・忍』を恐れていますが、『私は善である』と心性を法の上におくことを守れば、邪悪はあなたを見るとすぐに避けて、逃げていきます」

 またこの同修は、始終、師と法を信じており、師父の按排を全て信じており、彼女の話では、「私が捕らえられたら、そこで法輪功の真相を伝えるだけのことで、師父が目の前にいらっしゃるのに、誰を恐れるのでしょう」、「私が派出所の警官に真相を伝えるのは、自分の家で話すのと同じようなものです」。このようにして、彼女は環境を開拓していきました。派出所であっても、国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)であっても、610弁公室であっても、みな法輪功迫害の真相を理解すれば、救うことができます。

 つまり、大法弟子は何かあることを恐れず、何か起これば、法を実証する良い機会が来たのであって、例えば、ある同修の文章で「初めは、警官らが交代で私を探すのが嫌でしたが、現在では警官らに探して欲しいと思っており、なぜなら、一人で法輪功の真相をはっきりと伝える第一歩を踏み出せるからです」とありますが、もし中国の同修がみな、このように行なうことが出来れば、現地の法を実証する環境を打破することができ、また、正々堂々と法を実証することが出来るようになり、そうすれば、衆生を救う力は大きくなり、ほとんどの中国人を救うことが出来るようになります。

 昨日、私は明慧ネットに掲載されたある同修の文章、『大法を修煉し、生命の道が進むにつれて広がっていく』を見ました。以下は、一部を抜粋した文章です。

 学法や人を救うことを途切れることなく行なうことで、私の心の容量は拡大されていき、慈悲心はますます大きくなり、根強く騙されている公安局、検察庁、裁判所の衆生をさらに大切に思うようになり、この過程の中で、私心を暴露し、自分を守ろうとする汚い人心を取り除き続けました。ある時、私はバスの中で座っている2人に法輪功迫害の真相を伝えると、この2人は三退しました。話していると、突然に太った警官が来て、「何をしているのか?」と言われ、この2人が『法輪功』と言いました。その警官は法輪功と聞いた途端に、「おい、立て、オレはまさにお前のような法輪功学習者を捕まえなければならないのだ」と言って、すぐに私を捕まえようとしましたが、私はその時にとても俊敏に動き、急いでその場を離れました。

 2回目は、私がある人に法輪功の真相を伝えた際に、その人は飲食店に入ったので、彼に真相を伝える法輪功の資料を渡すために、私も一緒について飲食店に入りました。店内に入ると、私を捕まえようとしたあの太った警官を見つけました。その警官は一瞬で私を認識し、すぐに「それを渡せ、この前はあんたを捕まえることが出来なかったからな」と言いながら、私を捕まえようとしたので、私はまた急いでその場を離れました。

 3回目は、ある同修が街で車に乗っている警官に、法輪功迫害の真相を伝えるCDを渡そうとしたところ、その警官は彼女を捕まえようとしました。私はそれを見て、またあの太った警官だと気づきました。私は心の中で「今回はもう逃げることはできない。平然と対面するべきだ。私はこの太った警官を救わなければならない」と考えました。私は警官の前に行き、「私を覚えていますか?」と声を掛けました。警官は「法輪功を修煉しているだろ。何回もあんたを捕まえ損ねて逃げられた」と言いました。私は心を全て放下し、「今日は覚悟しました。私を捕えたいのなら話をし終えてから、そうするか決めて下さい」と言いました。

 私は警官の車の助手席側のドアを開け、座りました。「私はあなたのことを心から考えています。このCDを見てみて下さい。この国を大いに発展させたのは全て我々の中華の伝統文化です。中国共産党と江沢民は法輪功を迫害し、現在全世界で彼らの悪行を暴露しています。法輪功は徳を重んじ、心を修めることを要求しており、佛家の高徳な大法で、全世界に広く伝わっています。あなた達はみな中国共産党のデマに騙されています。これは自分たちを害しており、将来、みな葬られることになります。大法の師父は人を救うために来られた方です」と言いました。

 私は自分を忘れ、恐怖心を忘れ、完全にこれらの騙された貴重な生命を救うことだけを考えています。すると、大法の慈悲は警官の背後にある邪悪の要素を解体しました。そして、警官は法輪功の資料を受け取り、三退し、「ばあさん、これからは何かあれば私を探したらいい、もうあんた達を捕まえはしない」と言いました。

 ある時、ある同修が法輪功の真相を伝える時、警官に追いかけられました。警官は追いつくことが出来ませんでした。同修が私に教えたこの警官の特徴は、まさに私が三度も遭遇したあの太った警官でした。私は彼をすぐに探しに行き、なぜ、まだ法輪功学習者を捕えようとしているのか、聞きました。警官は「そんなことしていない、捕まえていない」と言うので、私はどこで、どのような大法弟子のことかを説明しました。警官は思い出したようで、「ばあさん、あんた誤解しているよ。上から出動の任務が与えられたのに、捕まえようとする振りをしないわけにはいかないだろうが? 本当に捕まえようとするなら、逃すわけはないだろう?」と言いました。本来はこういう事だったのです。私は警官に大法弟子に対し善なる行動をしてくれたこと、大法弟子を守ってくれたことに感謝しました。それ以来、私たちは友人になりました。出会った時はあいさつをし、さらに警官は「法輪大法は素晴らしい」と言いました。ある時、私は街の商人に法輪功迫害の真相を伝えていました。ある店に入った時、店内には多くの警官がいたので、私は外に出ました。その時、あの警官も店内にいましたが、私について店内から出て来て、私に法輪功の資料を求めました。

 年越しに、私はまたあの警官に出会いました。私はニコニコしながら、「我が友よ、明けましておめでとう!」と言いました。警官は、「法輪大法は素晴らしい! 法輪大法は素晴らしい!」と大声で叫びました。まさか警官が私に会ってここまで喜んでくれるとは思わなかったので、私は感動し、涙でいっぱいになりました。

 ある時、私はある男性に法輪功の資料を渡すと、突然男性の顔色が変わり、「俺が何をしているか知っているのか? 俺は政法委員会の者だ。法輪功の取り締まりを管轄している」と言いました。私はその時、自分の人心を守ろうとする気持ちは一切なく、平然として「あなた達の生命は、なおのこと救わなければなりません。なぜなら、あなた達は深く騙されています。この法輪功の資料を見てみて下さい」と言いました。私の正念が彼の背後の邪悪の要素を抑制し、彼は資料を受け取りました。彼は資料を手に持ちながら、「とても勇気があるなぁ、全て俺の頭に入った!」と言いました。

 またある時、私が法輪功迫害の真相を伝えていた際に、私服警官が私の後をつけていることに気づきました。私はすぐに市場を通り抜け、警官を引き離しました。その後、「私は逃げるべきではない。あの警官に会うべきだ」と思い直し、前の場所に行き、自分からその警官を探しました。そして警官を見つけ、「私のことをまだ覚えていますか?」と聞くと、その警官は「あの日はあんたを捕まえようとしていたが、あんたは逃げるのがとても速かった」と言いました。私は警官に法輪功の真相を伝え、その警官は前のような悪態をつかなくなり、私に対し非常に礼儀正しく接するようになりました。

 人を救う過程で、私は絶対に逃げることはしなくなりました。私は高級車に乗るような衆生を積極的に探し、法輪功の真相を伝えました。これにより、警官に真相を伝える機会に巡り合うことができました。私はこれらの騙された生命を救う機会と智慧を与えて下さった師父に感謝しています。私は彼らの生命を大切に思っているので、私の人を救う道はますます広くなっています。

 上記の同修も師を信じ、法を信じることができており、自我を放下し、慈悲をもって公安局、検察庁、裁判所の衆生に接しても逃避せず、能動的に人を救い、人を救う道は進むにつれてますます広くなっています。

 法を正す時期の大法弟子として、衆生を救うという重大な使命を背負っており、必ず、自分の責任は果たさなければならず、終始、自分の位置を正さなければなりません。何時であろうと何処であろうとも、私たちは主役であり、みな衆生を救いに来た者です。私たちは旧勢力の按排を迫害として捉えてしまうと、自分を被害者として考えることになります。これは自分が主役であること、自分が救う側の立場であることを否定しているのではありませんか? 言い換えると、旧勢力の按排を受け入れ、自分たちの師父の按排を否定しているのではありませんか? これは間違ったことではないでしょうか。つまり終始、自分の位置と立場を正常に直さなければなりません。私たちは師父が按排された衆生を救うという芝居の中の主役なのです。私たちが演じる役柄はまさに衆生を救いに来た者なのです。これから先も、環境が変わろうとも私たちの役は変わることはありません。

 他の角度から言うと、大法弟子がみな、旧勢力の按排を徹底して認めず、旧勢力の按排を迫害としてみなすことがなければ、また、みながこのように行なうことができれば、旧勢力は按排する機会がまだあるのでしょうか? 旧勢力が存在している理由がまだありますか? 無生の門に入ったならば、法を正す時期は終わるのではありませんか? 私たちが待ち望んでいる、法が人間を正す時期が来るのではないですか?

 実際の過程で、もし旧勢力が按排したことが起きれば、それが誰によって按排されたかは考えずに、内に向けて探し、同時に三つのことをしっかりと継続して行なえばよいのです。仮に、病業は実質的には生死に関わる問題で、連行されることは実質的に家に帰れるかの問題であると言う人がいるかもしれません。あなたは師父を信じ、生死と進退の問題はすべて師父の按排に任せればよいのです。あなたは三つのことをただしっかり行ない続ければよいのです。実際は、師父を信じているのか、それともやはり自分を信じているのかという問題です。あなたは全てを師父に按排して頂く勇気がなく、自分で自分を按排したいのではありませんか? 言い換えれば、あなたは自分を信じ、師父を信じていないのではないでしょうか?

 理性的に考えてみて下さい、結局のところ自分の能力が大きいのでしょうか? それとも師父の能力が大きいのでしょうか? あなたは自分を按排できるほどの能力を本当に持っていると思いますか?

 私たちができないことを全て師父に按排して頂くことは、後に自分を妨害する作用を形成することになります。自我は利己的なものです。自分を傷つけたくないと思うので、自分で自分を守ろうとします。そのため、信じられるのは自分で、根本的に心を放棄していないので、他の人に自分の一切を委ねることはできないのです。それならばどうすればよいのでしょうか? 断固として自我を放棄するか、あるいは自我を取り除くのもよいのです。思想の中にこの自我がなくなれば、残るのは本当の自分の主元神だけになり、ためらうことなく自分の全てを師父に委ねることが出来るようになります。

 従って、何かが起こった時、真っ先に自己を放棄し、自分を考慮しなければ、自我を放棄することができ、完全に主元神が自己を主宰するようになり、自分の全てを師父に委ねることができます。そうすれば、法を実証するための強い正念と活力を持つようになります。

 もし本当にこのように行なうことが出来れば、「私は李洪志の弟子あり、他の按排は要らない、認めない」[2] を本当にやり遂げることが出来れば、「師父は必ずあなたを支持します」[2] とあるように、あなたのために一切を追い払って按排して下さり、法を実証する道には障害となるものはなく、順調に進みます。

 師父は、「どんなに大きな出来事が起きても、何もなかったかのようにし、いつもと変わらず大法弟子が行なうべきことを行なってください。これは皆さん今日歩む道であり、皆さんが残した威徳なのです」[3] とおっしゃいました。

 以下は、安全の問題に対しての個人の認識で、同修たちの参考になればと思います。

 「安全」この二文字ですが、あなたがどの角度から理解しているのかを見ています。もし、常人の角度から見るならば、連行されることは安全ではなくなりますが、大法弟子が法を実証するという角度から見るのならば、連行されることは、私たちに提供された新しい法を実証する機会でもあり、師父がおっしゃった「逆手に取る」に照らし、衆生を救い、法を実証するという目の前の環境を利用しているだけのことなので、最終的に良いことになります。

 実際、法を実証する中でしっかり行なっている同修は、安全か安全でないかという問題について何も考慮せず、師父の説かれた通りに、たくさん人を救いたいと一心に思っています。特に、高齢の女性の同修は、法輪功迫害の真相を伝える時の心理状態が非常に純粋で、人を救うことだけを考えており、慈悲の力が現れ、少し話しただけで、脱退させることが出来ます。法を実証することをしっかり行なっている同修の中には、現地の法を実証する環境を打破したので、正々堂々と法を実証することができ出来るようになり、常人が言うところの安全の問題はなくなりました。

 修煉状態があまり良くない例として、師と法を信じることが出来ていない、正しい理で一つ一つ問題を見ることができていない、あるいは、周囲の法を実証する環境を開拓できていない、自分の身に旧勢力が按排した事が起こっている同修などがあります。このような同修は、法を実証する立場や、法に責任を持つという立場に立てば、また、衆生を救うという責任を負う点では、安全の問題を考慮することは当然のことです。つまり、安全を考えるという出発点は責任からであり、迫害されるかもしれないという恐怖心からであってはなりません。表面上は安全の問題として扱いますが、実際は責任の問題なのです。

 ただ、大法は圓容なものです。もし旧勢力の按排がすでに起こったのなら、例えて言うなら、警官に大法のものを押収されたなら、まさに「逆手に取る」ではありませんか、警官は私のものを持って行ったのではありませんか? それならば私は警官が欲しいものを見つけて、このきっかけを利用して、法輪功の真相を伝え警官を救います。警官を救えたならば、押収されたものはあなたに返されます。このように、物の損失が何もない上に、警官も救うことができるので、一挙両得であり、ある出来事がさらに良い結果になりました。つまり、たとえ目の前で起きた事が、一時的に良いことでも悪いことでも、全てにおいて、大法弟子が大法を実証することにおいて必要に圓容すれば、最終的に良い結果になります。

 中国の古いことわざに「失敗は成功の母」とあります。これはつまり、失敗が成功につながり、同様に、悪いことも良いことにつながるということです。法を実証する過程で、良いことに当たろうが、悪い事に当たろうが、私たちは師父が按排された三つのことをしっかりと行なえば、最終的に必ずこれらのことは良いことになります。つまり、師父の按排は、漏れることなく圓容します。言い換えると、どのような状況下であっても、あなたは師父が按排された修煉の道をしっかりと歩み、これらを気に留めることはなく、冷静に対処すれば、誰もあなたを遮ることは出来ません。これこそが、一筋の明るい大道なのです。

 大法弟子が法を実証することの全要素は、全ての面で三つのことをしっかり行なうことであり、自我を放棄することができ、完全に他人を思う気持ちで三つのことを行なってこそ、真に三つのことをよく行なうことが出来ます。学法の時に、何も求める心がないことは、謙虚に、崇敬に、誠実な姿勢で学んでいる一つの現れです。法を学び、法を得てからは、大法を以って自己の修煉や法を実証することを指導します。内に向けて探し、人心を捨てることを修めますが、それは迫害から逃れるためにではなく、大法に同化するため、法を実証し衆生を救うためであり、善良な心性の基礎を築き上げるためです。発正念は、迫害に遭わないように自分を守るためにするのではなく、大法弟子の責任を果たしているのであり、邪悪を排除する目的は、大法を守るため、衆生を救う時の障壁を除去するためです。法輪功の真相を伝えることは、自己の円満や威徳を積むために行なうのではなく、世の人々が救われるためです。

 修煉において、行ないを表面から見れば、本当に難しく複雑に見えますが、実質的に、それは一念によるものです。古から今日まで修煉のために準備された一切は、修煉者の心を変えるための準備であり、修煉の全過程も修煉者の心を変える過程です。つまり、利己的な人間は無私である神に変わり、一念で円満の境界へと変わります。

 これらの関係がはっきり分かれば、修煉の中で現れた全てのことは、あなたの心を試すためのものだと分かるようになります。あなたの心から来たものを見ています。もしあなたがその事柄だけを考え、そこから解決しようとするなら、あなたは解決できないでしょう。それはあなたの心が変わるのを待っています。あなたの心が変われば、それも付随して変わります。相(顔)は心から生じ、環境は心にしたがって変化し、心が無ければ身を滅ぼします。

 修煉においてしっかり行なうことができない原因は、自分をしっかり修めていないからであり、しっかり修めることが出来ない原因は、思考方式がまだ完全に変化しきっていないからです。常人の思考方式は、問題にぶつかると外に向けて探し、他人の不足を見ますが、これは自分を修めていません。外に向けて探すのではなく、内に向けて探すことが出来るようになれば、常人の思考方式が修煉者の思考方式に完全に変わります。もし、このような転換が実現できなければ、真の修煉者になることは出来ません。師父が与えて下った「内に向けて探す」というこの宝を用いてこそ、自分をしっかりと修めることが出来ます。

 修煉者が善良であるかどうかは、自我を放棄できるかどうかを見ています。自我を放棄できる人こそが、自己の一切を捨てきる事ができ、完全に他人のためを思う事ができ、慈悲と寛大な気持ちを持つ事ができます。人とつきあう時は、他人を大切にし、尊重し、守ることができ、終始正しい考え方で物事を見ることができ、他人の長所をたくさん見ることが出来ます。また、問題に遭った時は、他人に疑い深くなることはなく、他人の選択を尊重することができ、他人を強制することや、陰で文句を言い、誹謗中傷するといったことはしません。他人が自分に対して良くないことをしても許すことができ、恨むことや、復讐することはありません。また、他人の不足を包容でき、反感を覚えることや差別、排斥することはありません。他人の苦労も理解し、同情してあげることができ、他人のために考えることができます。このように行なうことが出来れば、法を実証することにおいて協力する時、心から他人に協力し、人や集団の手助けをし、師父が望まれることを圓容できるようになります。

 同修のみなさん、心の中でしっかり善を守れば、法を実証する道は順調に進み、世の人々を救うことができ、大法弟子の歴史的使命をしっかり果たすことができます。

 以上が現段階の個人の悟りです。適切でないところがあれば、慈悲なるご指摘を宜しくお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「シカゴ法会」
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法』「二〇〇四年ワシントンDC法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/12/26/397554.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2019/12/27/181245.html)