明慧ネットの記事 「有為の代価」を読んで考える
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 文/ 海外の大法弟子  

 【明慧日本2020年5月3日】最近、明慧ネットに掲載された「有為の代価」を感慨深く読みました。私も同修との付き合いに関する見聞や体得があり、皆さんと交流したいと思います。法理に符合していないところがあれば、どうぞ、指摘してくださいますようお願いします。

 生活が困難な同修、特に迫害を受けている同修に大法弟子として援助の手を差し伸べ、同修や同修の親戚を助けすることは、多くの同修がしたことがあります。

 私はかつて不当な実刑判決を下されたA同修と接触しました。Aさんの夫は亡くなり、子供が大学に入学する時、多くの同修が現金や物で助けをしました。このことはおそらく迫害によって子供たちにもたらした傷を補うためだと思います。Aさんは経済的に困窮した時、娘を外国へ留学させるために同修からお金を借りました。2年前、表向きは精進しているように見えたAさんは、重い病業に陥り亡くなりました。のちに同修の皆さんがAさんを見舞いに行った時、Aさんの家には同修から贈る送られた高級な果物がいっぱい置かれ、娘さんはブランド品の靴を履いていたと話していました。しかし、手助けをした同修たちは節約していました。のちにAさんの子供は修煉を止め、同修が渡した真相の小冊子を全部捨てたそうです。

 大法弟子の家に生まれた子供は大法と縁があり、家族が迫害を受けている状況下で、多大な苦痛を受けました。親として子供の心の傷を補いたいという気持ちは理解できます。ある同修は経済的に余裕があるにも関わらず、子供にさらに良い生活と物を与えたいと仕事に出ています。しかし、この物欲が横行する世では、子供は物に惑われやすく、自分が手にした物を大切にしなくなります。

 師父はこのように説かれました。「そういう人は良い人なので、最初のころは、人の病気を治して、お金を渡されても贈り物を渡されても、受け取らないかも知れません。しかし、このような返修の者は心性の修煉を真に経ていないため、自分の心性を制御することが難しいのです。常人という『染め物がめ』での汚染に抵抗しきれず、だんだんとちょっとした記念品を受け取るようになり、そのうち大きな物までもらうようになり、しまいにはくれるものが少ないと承知しなくなります。最後にはとうとう『物をたくさんもらっても仕方がないから、金をくれ!』と言い出し、その上、金が少なければ機嫌が悪くなります」[1]

 大法弟子として、法の中で子供を導くことが、子供にとって最もよい助けになります。最近、直接または間接的に親が迫害を受けたことのある子供に出会いました。経済的に余裕があるのに、子供の生活の面倒を同修を頼むのは子供の修煉にとって良くないだけでなく、支援する同修の迷惑にもなり、修煉していない常人と新しい学習者に悪い印象を与えてしまいます。子供の助けを頼まれた同修はメンツやほかの原因で同修の頼みを断われず、時間が長くなれば手助けをする同修は耐えられなくなり、助けられた同修との間に隔たりができて、不必要な煩わしいことが起きてしまいます。師父は「借りがあれば、返さなければいけないのです」[1]と言われました。同修の金銭と時間は大法の資源であり、無駄にしてはなりません。

 手助けを頼んだ同修は、理性をもって同修に対処しなければならず、自分の修煉の道を正しく歩まなければなりません。いろんな問題や煩わしいことが起きたのは、手助けした同修にも責任があるのです。

 大法弟子同士の付き合いについて私は次のように思っています。私たちは親戚でもなければ、友人でもありません。修煉の道を正しく歩めば生活の問題は解決されます。同修同士はクリーンな付き合いをすればよく、大法の仕事上において協調し、互いに励まし合い、共に向上すればいいのです。私たちは常人のような義理人情の付き合いを避けるべきで、トラブルによって私たちの協調に影響を与えてはなりません。もし常人の義理人情的な付き合いを避けることができなければ、少なくとも常人としての道理「実の兄弟の金銭の貸し借りのようにはっきりさせる」ことで、借金してはなりません。私たちは大法弟子の姿を現し、他人の事を考えるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/4/27/404419.html)