法を一歩一歩認識し 少しずつ執着を取り除く
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文/西オーストラリアの大法弟子

 【明慧日本2020年5月4日】私は、二十数年修煉し、苦労しがら今日まで来ました。一番言いたいのは、「師父に感謝致します!」です。私は、自分の最近の修煉の体験を皆さんと交流したいと思います。

 仕事中に、少しずつ嫉妬心を取り除く

 私は、ある牽引車関連の会社でデザインの仕事をしています。ある日、私は1台の牽引車の進捗状況をチェックしに機械室に行きましたが、社長に頭ごなしに叱られてしまい、説明のチャンスを与えませんでした。社長は、叱った後、去って行きました。実は、そのデザインは私が担当したのではなく、他の若者が担当していました。その時、私はいい気分ではありませんでした。

 もちろん、私は修煉者で、表面上は我慢できましたが、心の中にはまだ完全に放下することができず、悔しく思いました。それだけでなく、機械室の責任者は遠いところから私を見て笑っていました。私は彼に近づいて説明しようとしましたが、彼は、「私はあなたがデザインしていないことを知っている。あなたがデザインしていないことが、あなたの間違いではないのか? 彼は若手で、あなたはベテランのエンジニアで、すべてあなたの間違いだよ!」と言いました。

 オフィスに戻った後、私は「どこが間違っていたのか?」と考えました。内から探してみると、私は、「さっき機械室に行く前に、裏で人の悪口を言い、口を修めていなかった」と分かりました。その時、心の中で笑いながら、「現世の報いが来るのは早い!」と思いました。但し、この点だけかとさらに深く堀りさげると、私はその若者に対して嫉妬心があることが分かりました。仕事中、彼が私に聞かなければ、私から積極的に彼をサポートすることを考えていませんでした。実は、裏には嫉妬心が隠れていました。もし、心から他の人のためを思い、会社のために製品をよくデザインすべきだと思っているのであれば、常人の中でもチームワークについて言われているように、他の人を助けるのは自分を助けるのと同じことで、まさにその通りで、積極的に彼をサポートすべきでした。

 さらに深く堀りさげると、嫉妬心の裏には「名」と「利」の心があったのではないでしょうか? 他の人が自分を超えるのを恐れ、自分より評価されることを恐れ、自分の仕事の成果が他の人に取られるのを恐れ、自分の利益が損をするのを恐れていました。結局は、その「私心」が邪魔をしていました。

 私は「修煉者の全ては師父が按排してくださるので、偶然のことはない。ぶつかったときに、自分がどのように向き合うのか、どのように考えるかが試されるのではないか? これを守り、あれを失うのを怖がるのは、全て人心ではないのか! いつも自分で按排しようとすれば、結局は、師父が按排してくださっていることを信じていないのではないか? 師父を信じ、法を信じることを徹底していないのではないのか?」と理解しました。

 それから、私は嫉妬心の表れに特別に留意しました。多くのよくない考えは、この心が起こし、また嫉妬心の根は深く、直接「私」から来たことに気づきました。私は「これを取り除くためには、少しずつしっかりし、少しずつ取り除くべきだ」と感じました。見つかったら、絶対いい加減に放任せず、本当の自分を見極め、抑止し、排除し、取り除きました。

 子供を教育する中で、自分を修める

 皆さんもご存じの通り、親として、子供を教育するのは、当たり前のことで、責任でもあります。但し、度をうまく把握できないと、「情」により左右されてしまいます。この点については、私はずっとよくできず、特に子供に対する態度も、話す時の口調も、多くは「情」に左右されているにも関わらず、「子供のためだ」という旗印を掲げていました。

 私の娘は大学生で、去年の夏休みに家に帰ってきた時、ある期間、毎日ゲームに溺れていました。彼女は、小さい時は話をよく聞く子供で、成績もずっと悪くありませんでした。修煉に対して、私たちはできるだけ娘を同行し、彼女自身も修めました。交流した後、他の人も遊んでいるので、自分だけ変わり者になると、友達と話す時、自分は分からないということでした。今の社会環境は既にこうなっていて、自分の子供が泥中の蓮になってほしいのは、願望に過ぎず、彼女自身が修煉の中で向上しないと不可能です。

 理屈はそうですが、娘がゲームで遊ぶのを見ると、いらいらしてきます。特に、私の前で遊んでいる時、私はもっと苛立たしくなります。ある日、夕食の前、勉強も努力しないし、修煉も怠けていると娘を叱りました。特に、彼女を他の人と比べ、彼女の痛いところを刺激しました。彼女は聞くと、すぐに怒り出し、大声で弁解しました。私がもっと大きな声で彼女を叱ると、彼女もさらに大声で私に叫び、私も次第にもっと大きな声で彼女に怒鳴りました! その時、私たちは本当に誰の声が大きいのかを比べていました。最後に私が負けました、何故かと言うと、私の声が枯れてしまったからです。

 冷静になってから、本当におかしいと感じました。これは、子供を教育するのではありませんでした。表面の「忍」もできていないし、「善」はなおさらありませんでした。師父は、「子供をしつける時にも、ひどく怒り、かんかんになる人がいますが、しつけはそこまでしなくてもいいはずで、本気で怒ったりせず、理性的に教育して、はじめて本当に良い子供を育てることができます。小さなことも乗り越えられず、かんしゃくを起こしたりしていて、功を伸ばせるとでも思っているのですか」[1] と説かれました。法に照らして、私は自分があまりにもしっかり修めていないことにきづきました! 恨む心、闘争心、自分が親として尊敬されていない心、全てが表に現れました。子供は私の私物ではなく、娘も独立した命です。また、大きくなったので、もっと他の人から尊重されるべきです。

 師父は、「わたしがいつも言っているように、ある人が他人のためだけを思って、しかも、自己の目的と認識を少しも抱かなければ、語る話は相手に涙を流させるのです。わたしは皆さんに大法を教えただけではなく、わたしの行ない方をも皆さんのために残していますが、仕事のときの口調、善の心、それに加えて、道理で人の心を変えることはできても、命令では永遠にできないのです!」[2] と説かれました。子供を教育する時、私の「口調」は非常に良くないし、「善の心」も多くは偽りの善で、もし心から「完全に娘のため」を思えば、私はきっと自分が落ち着いている時、娘が受け入れられる方法で話し合うと思います。「理屈」上からも、私は他の子供の長所と自分の子供の短所を比べ、娘の長所に対して、見て見ぬ振りをしました。私が何一つできていないのに、良い結果をもたらすはずがありませんでした。

 ある日、私が真相の電話を掛けている時、妻は隣で少し聞いた後私に、「あなたが、普段電話を掛ける話し方で私たちと話すと、あなたと喧嘩をしたくもできないのよ!」と言いました。私は聞いた後、長い時間言葉が出ませんでした。私は、この点において、私の本質はまだ修めていないことに気づきました。もし本質がよくなれば、誰と話してもそのような話し方になるなずです。子供を教育する時、娘と誰の声が大きいのかを比べることはありません!

 先日、娘から電話がきて、すべてのゲームを削除したと言いました、携帯の中も、パソコンの中も、全て削除したということでした。私は聞いた後、本当にうれしく思いました。私は、娘が良い方向へ向かっているのは、私が法の中で自分を正したことと関係あると思いました。

 真相を伝える中で、少しずつ自分を浄化する

 師父は、「若者はいつも高望みしているようで、心が浮き立っています。大法弟子なので、何かに取り組むとき、着実に行なう必要があり、あなたが修煉者だからです」[3] と説かれました。この法を学んでいる時、私はもう若くはありませんが、「いつも高望みしている」ことと「着実に行なう」ことは、私の不足を指摘していることに気づきました。

 去年のクリスマス前の週末、私はいつも通りにチャイナタウンの真相拠点に行って、真相の看板を置いた時、突然頭の中に、「私は男なのに、おばあちゃんたちを連れて、毎週、週末にここにくるのは、必要ないのではないのか? 私は家で法をもっとたくさん学び、夜に真相の電話をかければ良いのではないのか?」という考えが浮かんできました。

 このように思った後に、頭をあげると、2人のクリスマスの帽子を被った女の子が私に、「メリークリスマス!」と言い、またフックの形の飴をくれました。飴には小さいカードが付いていて、カードには、「あなたは孤独ではない、神はあなたのそばにいる!」と書かれていました。私は当初は驚き、師父の慈悲と励ましを切実に感じました!

 現在師父の法と対照し、この出来ごとを思い出して、自分のネガティブな考え方の原因を探して見ると、表面上からは、気楽にしたくて、苦を嘗めるのを楽とするのができないように見えます。もっと深く話すと、実は修煉の縁を大事にしていませんでした。これらを考えると、修煉は本当に厳粛なことだと悟りました!

 私がチャイナタウンの真相拠点で三退を進めることを続けて、今年で6年目になりました。徐々に、多くの人が私を知るようになり、会うとある人は私に挨拶をしてきます。特に三退をした世間の人は、彼たちが変わってくるのを明らかに感じることができました。

 ある日、私はある若い男の人に三退のことを話したら、彼は微笑みながら、「数年前にあなたは私を退出させました、また私に『法号』をくれました」と言いました。彼の話に私は笑ってしまいました。私は彼のために本当にうれしく思っています。またある日、私は若い夫婦に三退の話をしたら、男性は、「私たちがオーストラリアに来た初日に、私たちを退出させたのはあなたですよ、私はよく覚えています」と言いました。

 三退を勧めるこの数年、私は感じたのは、「修は己にありて、功は師にあり」[1] です。師父が按排してくださり、師父がなさっていました。私はこの過程で少しずつ自分を浄化し、自分を修煉していただけです。特に、三退の人数に執着してしまい、人を追いかけながら話し、常人の反感を買うことをしてはいけません。

 一つの教訓があります。ある日、若い女性に、私が資料を渡したら、彼女は丁寧に拒否しました。彼女が善良に見えたので、私は一歩追いかけました。距離が少し近かったかも知れませんが、すぐに彼女の反感を買ってしまい、「近づかないで!」と言い、口調は良くありませんでした。私は、その時とても気まずくなりました。後から私は、その時に悪い考えはありませんでしたが、彼女の気持ちを考えるべきだと悟りました。それから、私は女性に真相を伝える時は、基本2メートル以上の距離を保ち、もし相手がよく聞こえなかったら、また相手が聞きたがったら、私は少し一歩前に進み、反感を買わないようにしました。

 成功の例も話したいと思います。2週間前、若い女の子で、私たちの真相拠点のある道路の両端の石の椅子の上で、自分のバックを整理していました。私は遠いところから試しに彼女に、「法輪功を修煉するのは、良い人ですよ。共産党は良い人を迫害して横領も多いし、腐敗しているので、本当に命運が尽きています。私たちは、党、団、隊から退出すると、本当に、自分に福をもたらしてくれますよ!」と言いました。彼女は反感を示さなかったので、最後に、私は彼女が少年隊に加入した時の誓いの言葉を取り消すように話すと、彼女は微笑みながら、もう忘れたと言いました。私は、続いて注意を促すような形で、「人は忘れているけど神は忘れていませんよ、退出するのはあなたを祝福するためです!」と言いました。彼女は、喜んで同意しました。後から、私はこの過程を振り返って見ると、時間は短かったのですが本当に、全ては師父が按排してくださり、師父がなさっていました! 全ての救われた命は、師父が弟子にくださったプレゼントで、私たちはプレゼントを受け取る際に、自分をきれいに修め、彼らの善念を守るべきです。

 その他、私は、「自分を少しずつ浄化し、心から他の人のためにすれば、本当に人の心を動かすことができる」と悟りました。この数年間、私は3回真相を聞く時に涙を流した人を見たことがあります。私も涙ながら真相を伝える時も少なくありません。西洋の人も涙を流す人がいます。多くは、彼女たちは真相の中の自分を見て涙を流しました。

 私の天目は開いておらず、何も見えません。但し、法の中から、私たちの真相拠点は、人を救う場所だけでなく、邪悪を消滅する場所でもあり、大法弟子を成就させる場所でもあると悟りました。正法がいつまで続いても、私は法がこの世を正すまで、機縁を大事にし、しっかり歩みます。

 同修との矛盾の中、少しずつ自我を修めきる

 修煉の中、自我は固い石のようなもので、全ての修煉者が必ず向き合うべきです。特に、正法修煉の中、人を救うプロジェクトや、プロジェクトの運営方式に関わる場合、この問題は特に目立ってきます。

 2年前、大きなグループで法を学んだ後、神韻のポスターをポストに入れることについて交流しました。ある同修は、自分の経験を交流しました。彼女によると、朝晩に配ると、気温も高くなく、日焼けもしないし、歩くのも早く、効率が良いとのことでした。続いて、他の同修は、夕方に配ってもいいが、遅すぎてもだめで、「ゴミ郵便物禁止」の印があるかないかが見えづらいと言いました。私はすぐに、「早すぎてもだめで ・・・」と言い、まだ話が終わっていないのに、他の同修が私の話を中断し、「早いのもだめ、遅くなってもだめ、じゃどうすればいいのか!」と言いました。もちろん、この同修が他の人の話を中断するのはよくありませんが、後からこの同修もこの点に気づきました。私がここで伝えたいのは、なぜ同修が私の話を中断したかです。私は当初の場面をよく考えてみました。実は、私は途中までしか言いませんでしたが、気が合わない人との会話は難しいと感じました!

 その日、家に帰る時、私は問題点の所在を見つけました。私は途中までしか言いませんでしたが、私の頭の中には多くの言葉を考えていました! 「遅すぎてもだめ」と言った同修は、同修を肯定する話し方で始まったのに、私は同修を否定する話し方で始め、「自分をアピールするのを急ぐ」という心で、「私が話した内容は大事です」、「私の話が正しいです」、「独りよがり」等の自我を貫く要素が含まれているにも関わらず、「神韻プロジェクトのため」、「人を救うため」等に見せかけており、識別するのが本当に難しかったのです。

 後から、私はまた、「この点については、話す内容は重要ではなく、話す口調と方法が重要で、ほかの人の立場に立って、自分の考えを善意に伝えるのが鍵だ」と悟りました。例えば、私は、「早いのはいいが、ポストに入れる時、ある犬はひどく吠えるので、早すぎると静かな住民たちの休憩に影響するのでは?」と伝えられると思います。

 さらに深く堀りさげる時、自我に執着する問題だけではないことに気づきました。もし常に自分の考えを貫き、常に自分の認識が正しいと強調したら、師父が全てを按排してくださり、師父がなさり、わたしたちは過程の中で自分を鍛えていることを忘れやすくなります。

 もう一つの例を挙げます。道路の端でチラシを配る時や臓器狩り反対のサインを集める時、あるお年寄りの同修がいて、私は彼女が一生懸命で、少し行き過ぎて、歩行者を妨害しているように感じました。私は彼女と2回交流した後、彼女は口では、はいと答えましたが、すぐに元に戻ってしまいます。ある日、彼女は私の隣に立っていて、彼女がそのように署名を集めるのを見て、私はとても辛いと感じました。私は何回も声をかけようとしましたが、我慢しました。また言うと、3回になってしまうからです。

 その後、私はとうとう我慢できず、道路の向い側に行きました。自分の心理状態が落ち着いた後、私は、「何故私はこんなに辛くなっているのか? 表面では法を守り、世間の反感を買うのを恐れているように見えるが、本当にそうなのか? 私のやり方は歩行者を妨害していないのか? どんなことでも過(す)ぎたるは 猶及(およ)ばざるがごとしで、自分がちょうどよくできていることはどのように保障できるのか?」と考えました。

 その他、同修に不足がある時、善意に指摘するのはいいのですが、度を超えてはいけません。同修が直らないと、自分は辛くなるのか! 私が言ったのは法ではないので、同修はどうしても聞くべきなのか?修煉は自分を修めることで、大きなことは師父の法身が見守ってくださっておられるのではないのか? 私がそんなに辛いのは、自我に執着するからではないでしょうか!

 このように考えた後、私は再び同修を見る時、全てが変わったように見えました。同修のやり方もそれ程やり過ぎではありませんでした! 角度を変えてみると、彼女は年もとっているし、英語もうまくないのに、苦労を恐れず、世間の人のサポートを求めるのは、何のためだろう? 他の空間でみると、どれぐらいの生命が救われるのか! これこそ、師が法を正すことを手伝うことではないのか? これこそが自分の威徳を立てるのではないでしょうか?!

 正法修煉の最後の時、全ての考えは非常に重要です。ある日の朝、煉功する時、私は突然「時間とともに金は磨かれますます輝くようになります」[4] を思い出し、心身が思わず震えました。私は、自分が最近修煉に対して、意気消沈していて、精進の意思を緩めていることに気づきました。実は、自分に対して厳しくしないと、それは単なる「意気消沈」と「精進しない」だけではなく、本当は取り除くべき執着を、取り除いていないし、むしろ自分が怠けている最中に、それはもっと強くなりました。それらの良くないものは、全て物質で、生きています。彼らと一致し、従ってしまうと、彼らを認めているのではないか? 彼らは強くなったのではないか? 私は、全ての関と難の中で、修煉は水に逆らって行く舟なので、進まなければば則ち退くのと同じであることを悟りました!

 慈悲で偉大な師父に感謝いたします。同修に感謝いたします。文章中の不適切なところについては、同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「はっきりと目覚めよ」
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一九年ニューヨーク法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「シカゴ法会」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/2/395276.html)