大和尚と小坊主
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2020年9月20日】大法弟子は常人の中で修煉しており、普段の生活の中の些細なことは、私たちの心性を向上させるためのもので、法の中で認識することができれば、越えられない関はなく、解決できない葛藤もないと思います。

 私は「天安門焼身事件」が起きた年の冬に、古い修煉者3人と14~15歳くらいの子供1人を連れて、法を実証するために北京に行きました。当時、共産党の厳しい封鎖のためにホテルに泊まることができなかったので、小さな家を借りて、同修たち数人で一緒に過ごすしかありませんでした。グループの中では、この子供を除いて私が一番若かったので、自分がやるべきだという気持ちで、何の不満もなく、食料品を買ったり料理を作ったりして、他の雑用も積極的に引き受けました。

 数日後、グループは北京の立体交差橋に大きな横断幕を掲げました。その後、私を除く全員が地元に戻りました。そのときは自分はよくできていないと思っていたので、北京に残ることにしました。それから、数日経った頃、また4人の同修が私のところに来ました。その中には1歳未満の子供を抱えている人もいました。同修たちは私と一緒に過ごすことになりました。今度は、私は彼らよりも年上だったので、私がしっかりすべきだと思いました。毎日の食料品を買い、料理などの雑用を引き受け、赤ちゃんのためにも牛乳やビスケットを買わなければなりません。しかし、外に出ると私服の警官があちこちにいたので、毎日遠回りして食料を買い求めていました。とても忙しくなってしまい、法を学ぶ時間もほとんどなくなり、『轉法輪』も手元になかったのです。私は、同修たちに自分のウォークマンを使ってもらったので、私は学法できるものがありませんでした。

 1週間ほど経ったある夜、私は首に何かが詰まっているような感じがして、呼吸が苦しくなりました。気にはしていませんでしたが、いつの間にか寝てしまいました。

 後で気がついたのですが、それは、身体が「玄関設位」を始めていたのでした。今思えば、そのときは毎日ほとんど雑用をしていて、法を学ぶ時間がほとんどなかったのに、どうやって向上したのでしょうか?  私は悟りました。つまり、修める人しか得られないのです。師父の説かれたとおりで「失わないものは得られず」 [1]ということです。

 私と母と義妹は一緒に修煉をしています。母と義妹は一緒に住んでいるので、些細な家事のことで喧嘩をしたり、探りあったり、特に料理を作ることで口論になったりすることが多くありました。2人とも私に文句を言ったり、お互いを責めたりして、ほとんど反発し合っていました。そこで私は、法に基づいて悟れば2人の間のわだかまりを解消することができる思いました。ある日、私は母を家に呼びました。私は「一緒に法を暗唱しようか?」と言うと、母は「どこから暗記するの?」と聞きました。私は「大和尚と小坊主から暗記したらどう?」と言いました。暗記した後、私は母に「お母さんは家の中で一番年上なんだから、大和尚になった方がいいんじゃないの?  義妹を小坊主にするのはどうかな?」と聞きました。 母はすぐに、「いや、私は小坊主になりたい! あなたの義妹に大和尚になってもらう!」と答えました。その後、母は喜んで家に帰っていきました。

 次の日、義妹から突然電話があり、母の家に来てほしいと言ってきました。なんと義妹は「お義母さんはあなたのところに行ってから、別人のように変わりました。何も文句を言わなくなったばかりか、私に対する態度が良くなったのです。お義母さんに何て言ったの?」と聞きました。 私は、母と一緒に「大和尚と小坊主」についての法を暗記した過程を、彼女に伝えました。「母は、『自分は小坊主になりたい』、そして『あなたには大和尚になってもらう』とも言っていましたよ」と義妹に話しました。 義妹はすぐに理解してくれました。彼女も「私も小坊主になりたい!」と言いながらあわてて台所に走り母と一緒に料理の支度を始めました。母と義妹は、大法の法理を理解していたので、それからは2人の間のトラブルは解決されました。

 大法弟子として、私たちの個人的な修煉においては、師父は、「悟る者が得るのです」[1]と仰っています。「修める人しか得られない」、「代償を払う人がその分だけ得る」、これが私の個人的な修煉における認識です。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/9/11/411624.html)