明慧ネットの物語(二)
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簡素なスタート

 開設当初の明慧ネットは、非常に簡素なものでした。当時の編集作業はまだ、それほど複雑なものではなく、使用するパソコンも非常に旧式のものでした。インターネットの接続は電話回線で行われ、回線速度は非常に遅いものでした。技術担当者も、ネットワークについての基礎的な知識しか持っていませんでした。
 
 明慧ネットが開設されてから一週間足らずで、中国本土からの投稿文章は増々増えてきました。毎日500件以上のメールを受け取り、多くは緊急に対応しなければならないものでした。そのため毎日会議が開かれましたが、それでも沢山の問題を解決することができませんでした。
 
 しかし、このことをしっかり行わなければならないと、全員が決心しました。なぜなら、私たちの行う全てのことは自分自身のためではなく大法を守るためであり、迫害を受けている中国本土の大法弟子の環境を安定させるため、世界中の修煉者と一般読者に対して法輪功真相を伝えるためだとわかっていたからです。
 
 開設当初の明慧ネットのデザインは非常に簡単なものでした。毎日、数篇もしくは10数篇の記事を掲載し、その後、状況の変化に合わせて、毎日更新する形式へと変わりました。
 
 多くのスタッフはあっという間に、明慧ネットの10年の仕事の道のりを共に歩んできました。若者にとって、10年は短い期間ではありません。なぜなら中国本土の主戦場と繋がっているため、他空間からの巨大な圧力を受けなければならず、さらに学習者内部の様々な圧力、様々な膨大な仕事なども受けなければならなかったからです。私たちはこの、特別な修煉の機会を頂き、既に通常以上の圧力を受けていましたが、師父が私たちのために一身に負わされている、巨大で実質的な圧力と困難とは決して比べることが出来ません。つまり、師父がいなければ、誰もこの数年間を生き残ることは出来ませんでした。もし法がなければ、私たちの誰もが修煉を堅持することが出来ませんでした。
 
暗黒の日
 
 1999年7月20日は、暗黒の日でした。7月20日の朝、中国共産党による迫害政策のもと、各地の警官らは一斉に法輪功修煉者と法輪功の各地の協調人を不法に逮捕し始めました。それ以降、中共のコントロール下におかれている全てのマスコミが、一斉に法輪功を誹謗中傷する宣伝を始めました。
 
 中国本土各地の学習者はこの情報を聞きつけ、地元や北京の陳情局に駆けつけました。北米の多くの学習者も米国ワシントンDCに駆けつけ、中国領事館の前などで集会を行い、迫害停止を呼びかけました。当時の形勢は瞬く間に変化し、明慧ネットの適宜の報道が前にもまして必要とされていました。明慧ネットの編集者と技術者は、通常の休憩時間が取れなくなり、昼夜を問わず仕事をしなければならなくなりました。昼間は海外からの大量の投稿を処理し、夜になると更に中国からの投稿をまた、大量に処理しなければなりませんでした。このように、私たちは全く休む時間がありませんでした。
 
 ニューヨーク時間の1999年7月29日、編集部のパソコンが完全にダウンしました。つまり、この最も重要な肝心な時に明慧ネットのスタッフ、そして明慧ネットと外部との連絡手段を失ったのです。ちょうどこの時、ある大法弟子が、「私たちはワシントンDCに行きます。皆さんは休む必要があります。一緒に行きませんか?」 と切り出しました。「わかりました。連絡を中断して、ワシントンDCに行き、多くの同修と会いましょう」と、私たちは皆で一緒にワシントンDCへ行きました。ワシントンDCに着いてすぐ、ある同修が私たちに近づいてきました。彼は「知っていますか? 実は中共(中国共産党)は法輪功創始者の李洪志先生に対して、逮捕状を発行したのです」と言いました。この時私は「これは宇宙で尋常ならざることが起きた」と悟りました。その時はまだ、なぜこのようなことが起きたのか、わかりませんでしたが、同修の助けのもとで、直ちに紙とペンを見つけて、この中共による陰謀による迫害を世界に暴かなければならないと思いました。私たちはどんなことがあっても師父の傍らにいなければならないことを知っていました。そして、私たちは中共がどのようなことをしても、決して師父に触れることはできないと思いました。なぜなら、師父がいれば必ず、大丈夫だと信じていたからです。
 
 ある技術スタッフは、はるばる遠くからワシントンDCにやって来て、その時の真相を伝える活動に参加する予定でした。編集者からの要請を受けた後、彼はただちに明慧ネットの一員になりました。
 
 当時、全ての学習者は、迫害がただちに停止されることを目的として活動していました。北米の多くの大法弟子は、自発的にワシントンDCに集まり、炎天下のもとで座禅を行い、国会前で上流社会に真相を伝える人もいました。大法弟子による平和的で理性的な活動は、人々を感動させました。明慧ネットの適時の報道は、迫害を暴露し、迫害の真っ只中にいる中国本土の大法弟子への声援であり、同時に中共の虚言を暴くことにもなります。
 
 米国のある修煉者は明慧記者に対して「私は96年からネット上で『転法輪』を読みました。しかし周りに修煉者がいないため、99年まで本当の修煉をしていませんでした。当時、中共が李洪志先生を中傷する報道を出したのを見て、私は非常に疑問を感じました。その後、明慧ネットで真実の報道を見たことで、私の疑念が晴れました。中共がネットを封鎖しているため、中国国内の人々は明慧ネットを見ることが出来ません。ですから、私自身がネット封鎖を突破するツールを作りました。私はそれを、中国国内の友人に伝えました」と話しました。
 
 中国本土からやってきたある修煉者は明慧記者の取材に対して「ネット封鎖が始まってから、明慧ネットに入ることができなくなりました。当時私は、何とかネット封鎖を突破するツールを通して、明慧ネットを読めないのかと、試してみました。私は今でもこの、ネット封鎖を突破するツールのアドレスを覚えています。その後私は香港で、海外の同修が編集したネット封鎖を突破するソフトウェアを手に入れました。、私はそれを中国国内に持って帰り、多くの人に送りました。それ以来、私たちはこれらのソフトウェアを使って明慧ネットを見ています」と話しました。
 
 当初の迫害の勢いは、非常に残酷で危険なものでした。
 
 カナダのある法輪功修煉者は「当初、明慧ネットはネットサービスの会社のサーバー上で運営していました。しかし、当時、中共に雇われたネットスパイが、絶えず明慧ネットに対する妨害行為を行っていました。しかし、その会社の管理者は常に私たちを助けてくれ、できるだけサーバーを維持できるようしてくれました。ある日、私はどうしても彼と連絡をとることが出来ず、私が自宅に電話してみると、その管理者が自動車事故で亡くなったことを知りました。明慧文章の形勢と情報発信の過程は、海外の大法弟子と、特に多くの中国本土の大法弟子の努力によって成り立ってきました。明慧ネットの法を正す修煉の中での役割への認識、中国国内から明慧ネットに入り、資料点を形成し、明慧ネットのため、情報を収集し、記事を作成し、明慧ネットに記事を投稿する、そして様々な文章が明慧ネットから掲載され、それが中国各地の大法弟子に情報が伝わり、それらの情報が大量に印刷され、中国各地の人々に配布されていくという過程の中に、あまりにも多くの人々の、知られざる物語があります。多くの中国本土の大法弟子は、厳しい環境、物質的な条件にもかかわらず、黙々と明慧ネットの情報ルートを作り出し、守り、そして拡大しています。皆さんが知っている一部の海外の物語以外、ここで主に三名の中国本土の大法弟子の名前を挙げて、皆さんに例を挙げて紹介したいと思います。
 
(続く)
 
 
 
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/8/5/244932.html)
 
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