明慧法会|警察官の夫のそばで真相を伝える(二)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年11月24日】

 二、同修に対する私的な心から寛容な心へ

 修煉をしていくうちに、だんだん自分は魔性が大きく利己的で慈悲心に欠けていることに気づきました。この状態が続くと真相を伝える効果に影響を及ぼし、同修と協調が取れず、全体の向上にも悪い影響をもたらしてしまいます。

 例を挙げると、学法チームで交流する時に同修が難関に直面しているという話を聞くと苛立ちます。最初は何とか我慢して話すことができましたが、そのうちに「そんなことも乗り越えられないのか? 法の中でとっくにはっきりと説かれているのに、その執着心を取り除かなければ、どうやって修めていくのか?」と、次第に感情的になってきました。私は問題の解決を手伝うどころか、逆に同修に怒られてしまいました。同修は寛大な態度で「彼女の話は私を向上させたいからです。出発点は良かったけれども言い方がちょっとね・・・・・・」と皆に話すと、私は余計に腹が立ちました。「自分はあんな状態なのに、よくも人の話す口調まで上げ足を取るね」と思わず反発しました。自身でも魔性が大きいとよく分かっていました。何度も改めたいと思いましたが、その都度どうしてもコントロール出来ませんでした。

 ある日「明慧週刊」に掲載されている同修の体験交流文章を読んで深く心を打たれました。毎回相手の同修の長所を見出すことができ、大法弟子の輝きに魅了されると書いてありました。私もこれから見習わなければならないと決め、それから少しずつ我慢できるようになりました。しかしは口では言わなくなりましたが、いつも心の中で怒っていました。

 ある日、師父の説法の「当時、私は皆さんを済度した時、多くの人は私を罵っており、講習会に出たとき私を罵りながら講義を聞いていました。私は気にしません。私はどうしてもあなたを成就するまで済度するのです」(『二〇〇三年旧正月での説法』)を拝読して、師父の洪大なる慈悲に深く震撼しました。同じ師父の弟子なのに、同修の欠点ばかり見てきつく言う資格はないと深く反省しました。それから同修の長所が見えるようになり(以前は無理強いしていたが、今は自発的に心からそう思った)、同修の事をより深く理解するようになりました。同修が皆の前で自身の問題を打ち明けたのは、間違いを正したいと思っているからで、それは私達全体が向上する機会でもあります。以前の私は同修を叱責したりして、自分にとっても他人にとっても、少しのメリットもありませんでした。

 それ以来、同修に話す口調も変わり、真に心から同修のために考えるようになりました。「その難関は必ず乗り越えられますよ」と励ますようになり、自分自身の魔性も大分減ったと実感しました。その状態の繰り返しは心を修める過程でした。

 ある日、地元の同修が集まってパソコンの技術を私の自宅で教えてもらうことになりました。集まって来た同修は自分のパソコンを持ち込み、講師(同修)は私のパソコンを使って皆に手本を見せました。元々私が座りたかった技術担当の同修の隣の席には、甲さんが先に座ってしまいました。別の部屋に移動して家にあるデスクトップパソコンを使用することになった時も、甲さんがまた技術担当の同修の横に座りました。結局、その日は常に席を先取りされて私は全くパソコンに触ることができませんでした。内心では「こんなにたくさんの人が家に集まり、功労はないにしても苦労はあるはずです。私にまったく触れさせないなんて」と、だんだん不平不満の気持ちが出てきました。しかし考えてみれば「何のためにパソコンの知識を勉強するのかといえば、同修の負担を軽減することが目的で、全体の向上を第一に考えなければなりません。甲さんは郊外の農村からわざわざ来て、周囲にいる同修達のために技術を覚えようとしているのです。都会に住んでいる私に比べれば、不便な環境にいる甲さんに優先的に勉強してもらうべきだ」と思うと、内心はとても楽になりました。そして甲さんに「きちんとノートをとるようにね」と励ましの言葉を掛けました。

 最終的に講習が終わった後に、技術担当の同修はその場をすぐ離れませんでした。私は甲さんのノートを借りて実際に操作するところをみてもらい、できなかった箇所については技術担当の同修が分かりやすく教えてくれました。

 同修を助けると同時に自らを修める

 周囲にいる数人の年配の同修は、病業の虚像に妨害され学法すら困難になりました。私はその同修達と学法チームを設立して(同時に別の学法にチームにも参加している)月曜日から金曜日までのうち、4日間は一緒に学法し、残りの1日は資料の作成と配布をしました。年配の同修はいつも学法が終わった後に世間話を始め、常人の心を露わにしました。ある日、その年配の同修に発正念の時に使う「妨害を取り除く文言」を教えましたが、30分以上経ってもなかなか覚えてもらえず、最後は覚えるどころか気付いたら正反対の文言を言っていました。

 毎日猛暑の中でここまで歩いて(公共交通機関が通っていないため)学法の付き合いをしているのに、ずっとこのままでは、どうすればいいのかと焦り始め、とうとう我慢できず「おばちゃん、私はこれでもう精一杯です。発正念に使う簡単な文言を30分以上経っても覚えてもらえず、もうこれ以上教えることはできません。長い間ずっと病業に患わされておられるようなので、やはりお子さん(同修)の家に行った方がいいと思います。私より良く修めている同修に助けてもらえば、きっとそこに強い正念を持っている同修がいると思います」と言い残し、それからもう学法に行かなくなりました。その後、年配の同修は本当にお子さんの家に行きました。

 私はしばらく学法して内に向けて探しました。自分が年配の同修に対してしたことは、やはり利己的で正しくなかったと認識しました。実は内心で、私はずっと良く修めている同修と一緒にいたかったのです。年配の同修と一緒ではすべての法が読めないので、自分が一方的に犠牲を払っていると思い込んできました。自分は全く向上ができない(実際のところ、まさに向上するのに絶好の機会でした)と、出発点はやはり利己的でした。もう一つは自分を実証したいという心がありました。同修を助けているのでずっと顕著な効果を求めて、事態を反対方向に走らせてしまいました。

 取り除くべき執着心が見つかりましたので、また年配の同修達と一緒に学法することに決めました。ちょうどその時、年配の同修がお子さんの家から自宅に戻ってきました。しかし前の状態とほとんど変わらないと聞きました。それにしても私が求めるものは何もなかったので、年配の同修の自宅のドアをノックしました。「どうしてここへ?」と年配の同修は驚いた様子でした。「この前はすみませんでした。怒って追い払うなんて本当にいけませんでした。今日からまた一緒に学法しましょう」と説明しました。同修の顔に一瞬だけ嬉しそうな表情が現れましたが、すぐに「私はまた入院します」(以前も体に不調があるとすぐ入院していた)と心配そうに言いました。「大丈夫ですよ。これから一緒にきちんと法を学んで自らを修めていけば、全ての良くない状態が正されると思いますから」と落ち着いて話しました。年配の同修は、今度は心から嬉しそうに「また一緒に学法してくれるなんて、思いもよりませんでした」と感激しました。

 今回の事を通じて、人間を変えられるのは大法で、大法は全ての執着を取り除くことが出来、私と同修はみな大法の中で修めていることがわかりました。

 以上は修煉の過程における僅かな体験ですが、不適切なところがありましたらご叱正をお願いいたします。私が直面している最大の問題は「私心」を取り除くことです。「利己」は自分を修めずに他人に向けて問題を見つける原因となります。法を実証するのではなく自己を証明したいとか、嫉妬心を含むすべては「私心」から生まれ、正しくない状態です。かつて深刻な「私心」を抱え込んでいたために、真相を伝えて衆生を救う時に恐れる心が多かったのです。同修との間に起きた問題に対しても外に向けて探していました。これからきちんと法を学んで、常に自らを修めながら精進してより多くの衆生を救います。

 この数年はたくさんの同修に助けていただきました。師父の慈悲なる按排に感謝を申し上げます。

 合十!

 (完)

 (明慧ネット第8回中国大陸大法弟子修煉心得交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/15/249224.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/11/18/129555.html)
 
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