私たちの先生である鄒向陽博士を偲ぶ
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 【明慧日本2020年12月26日】長春工程学院の教師で、学法輪功学習者の鄒向陽博士は、2018年11月29日に無念の思いを晴らせないまま亡くなりました。あれから丸2年が経ちましたが、この記事を私たちの鄒先生に捧げます。

 人生の転機

 鄒先生は家族の中で8番目の子供です。当時、食べ物が足りず、子供が多い中でジャガイモを食べて育ったそうです。鄒先生は3歳の時に父が42歳で亡くなり、その後、兄も49歳の時に心臓発作で亡くなりました。

 鄒先生は就職した後、仕事のプレッシャーと小さい子どもを抱える中で、自身も心臓病で苦しんでいました。1995年、鄒先生は法輪功に出会い、僅か1カ月の間、各種の病気が消えて、あれから二十数年来、心臓病の発作がありませんでした。

 苦難の経歴

 卒業して20年後、心が浮き浮きして母校に戻り同窓会に参加しましたが、昔の健康で楽観的な鄒先生は、足を引きずって歩き、右手の5本指を捻じ曲げて箸が持てなくなった障害者になったことに気づきました。鄒先生の側にいる時に、先生の体の細胞のすべてが苦しみを経験したような気がしました。一体何が起きたのでしょうか?

 後で知ったのですが、中国共産党(以下、中共)が法輪功を迫害した後、鄒先生は何度も重症になるほどの迫害を受けたということです。相前後して、5回も連行され、2回労働教養を強いられ、拷問を受け、数え切れないほどの嫌がらせや脅迫を受けていました。細い体型で上品な鄒先生がどうやって乗り越えたのか想像できます。

酷刑演示:铁椅子

拷問の再現:鉄の椅子

 2002年3月4日、授業中の鄒先生は、長春市公安局6~7人の警官により連行され、目隠しをして浄月潭まで連れて行かれました。そこでは、鉄の椅子に縛り付けられ、スタンガンで電気ショックを加えられ、平手打ちをされ、鉄製のバケツを頭に被せて棒などで叩かれました。午後から一晩中拷問されて、鉄北拘置所で1カ月間拘束された後、3年間の労働教養を強いられ、長春市朝陽溝労働収容所に拘禁されました。

 朝陽溝労働収容所では、鄒先生は小さなプラスチックの腰掛けに座らされ、時間が長くなると、お尻が出血し短パンはお尻に付着してしまい、体には疥癬ができて、膿瘍から液体が流れでていました。食事の時に大根とキャベツのスープを提供してくれますが、碗の底には泥が大量に沈んでいました。また、労働もさせられました。春には土を掘って整える作業、秋にはトウモロコシを収穫する作業、冬にはトウモロコシを加工する作業や、家を建てる基礎作業をさせ、紙袋を貼る仕事もありました。最もひどいのは精神的な迫害です。鄒先生は法輪功を中傷するビデオや様々な資料を見せられ、報告書を書くことを強制され、睡眠を奪われ、コンクリートの床に座らされることもしばしばありました。

 2002年10月9日、鄒先生の母親が恐怖と不安の中で亡くなり、10月10日、鄒先生の妻は、葬儀に参列させるために鄒先生を迎えに行き、労働収容所は法輪功を放棄することを条件として、作業現場のトウモロコシ畑で2時間ほど対峙した後、ようやく家に帰らせました。

 2003年9月、労働収容所はまた、鄒先生の妻と子どもを労働収容所に来させ、離婚を挑発する手段を使って、鄒先生に法輪功を放棄させようとしました。

 2004年4月7日の夜、警官の指示を受けた受刑者は鄒先生に対して殴ったり、脅迫したりしたことによって、鄒先生の目はぼやけて、物をはっきりと見ることができなくなり、亡くなるまでずっと治りませんでした。

 労働収容所で迫害を受けた結果、鄒先生の体調はますます悪化し、体重が63キロから45キロまでに落ち、結核と胸水の症状が現れ、歩行困難になりました。2004年5月25日、仮釈放で帰宅しました。

 1999年7月22日から、鄒先生に対する嫌がらせはずっと絶えませんでした。特に中共の両会議や、オリンピック大会、様々な敏感日になると、なおさらです。

 輝かしい業績

 厳しい環境の中でも、鄒先生は依然として前向きで楽観的であり、学生たちのことを思いやり、自分のお金で研究書籍を購入し、学力だけでなく、人格のある人、善良な人、親孝行な人、他人を寛容できる人になるようにと教えていました。

 2005年以降、鄒先生は自分の信念を貫いたことで、10年以上も授業ができなくなりましたが、義務で大学院、大学の受験や、補習テスト、期末試験などのために、学生の勉強を指導していました。また、全国大学の構造設計コンクール、大学力学コンクールに参加するために指導し、良い結果を得ました。感謝の気持ちを込めてプレゼントをする学生もいましたが、ミネラルウォーター1本であっても、鄒先生はすべて受け取りませんでした。

 科学研究の面では、鄒先生は二つの科学研究プロジェクトと、省レベルの科学研究プロジェクト(構造耐震分野)を完成させ、良い成果を上げました。また、一連の論文を発表し、構造力学と住宅耐震の分野において深い造詣があります。

 20年間、鄒先生は義務で1000人近くの院生を指導しました。亡くなる2日前の11月27日と28日、グループで質問した学生に図書館で待ち合わせると送信しました。

 正義は心にあり

 以前に指導していたクラスの学生たちは、鄒先生が亡くなったことを知った後、クラス全員で8万元(約128万円)以上を遺族に寄付しました。これは鄒先生の偉大なお人柄に感化されているのではないでしょうか?

 もちろん、金銭で物事を量るのではなく、鄒先生は金銭に対してずっと淡泊でした。お金を稼ぎたければ、鄒先生にとって大変簡単なことです。現在、ワンペアで受験生を指導するのに、1時間2000元だと思いますが、院生ならもっといるかもしれません。なぜ、鄒先生はやらなかったのでしょうか? 私の知っている限りでは、おそらく自分の信念のためです。鄒先生は信仰を持っている教師として真の無私の手本を実践していました。現在と未来の世人に見せました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/11/30/415797.html)
 
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