メールがなぜ開けないのか?
■ 印刷版
 

――「ユダ」による監禁中の同修への迫害について

 【明慧日本2021年2月5日】地元の女性「ユダ」(裏切り者)が刑務所から戻って来ると、積極的に現地の邪悪と結託し、刑務所にいる同修を「転向」させようとして、看守より悪事を働き、「転向」しない同修を殴るよう必死に囚人に指示したのです。このことを聞いて、怒りがなかなかおさまらなくて、この悪行を暴くという考えで、彼女が刑務所にいた時の事をメールで同修に送り、悪報を受けさせるよう発正念をしてほしいとお願いしました。

 翌日、同修の返事を見ようと思いましたが、メールボックスにログインしてもできず、連続2日間も失敗しました。落ち着いて内に向けて探してみると、今まで認識できなかった人心が見つかり、いくつかの問題を発見しました。不思議なのは、再びログインするとすぐ開きました。このことで悟ったことを書き出し、同修と交流したいと思っています。

 1、内に向けて探す

 まず疑問に思っているのは、なぜこれを見た時にあんなに怒り出し、落ち着くのに何時間もかかったのでしょうか。もしかしたら自分でも気づかない人心があるのでしょうか。

 邪悪な刑務所で私たちが大法弟子を「転向」する、いわゆる「攻略チーム」に迫害されていた頃に遡ります。彼女はそこに入って、すぐ「転向」されました。彼女とほとんど話をしたことはないのですが、心から彼女を軽蔑しました。今、突然彼女が狂っていると聞いて、すぐに受け入れられなくなり、怒りもおさまらなくなりました。ここまで探すと、奥深くに隠されていた人を見下す心、憤慨する心、闘争心などが見つかりました。

 そのまま探し続けると、誰々が「転向」したと聞くと、まず軽蔑し、非常に拒絶反応を起こし、彼らに一言も言う気がなくなります。これは冷たい暴力であり、まさに党文化の一種の表れです。

 またその後、同修に彼女の状況を説明した時にも、上から目線で彼女を軽蔑した口調でした(実はその邪悪な環境で「転向」されなくても、精神的な影響が酷く、私は10ヶ月の時間をかけて、やっと法の中で正すことができた)。彼女が同修への迫害に手を貸したと聞いて、怨恨の心が生じました。

 これらを見つけ出しましたが、これらの心の根本は不親切です。

 2、不親切

 なぜ不親切なのか。まず、同修が「転向」されたと聞くと、どうやって彼女と交流するか、彼女のわだかまりを解すか、手を差し伸べるかを考えるのではなく、むしろ、彼女を拒絶して孤立させました。これは彼女をより邪悪の支配下に置き、それに傾くことを引き起こし、彼女を再び外へ押し出すことに等しいものでした。

 師父は「ですから、大法弟子は法を実証し、衆生を救い済度するとき、自分の態度、思想状態、やり方はいずれも肝心なことであり、世の変化を決めることができます。一人はある範囲を決めることができますが、さらに多くの大法弟子、これほど多くの大法弟子、数千万人の考えが動くと、由々しき一大事になります。」[1]と説かれました。

 考えれば考えるほど恥ずかしくなってきました。冷たく非難して説教する以外に彼女のために何もしなかったのです。発正念さえ1回もしたことがなく、私の不親切が今日の彼女の悪行の原因の一つになったのかもしれません。

 知るところでは、彼女の家庭状況は裕福ではなく、学校に行っている子供の面倒を見て、毎日出稼ぎにも行き、時間の余裕がなく、当然学法の時間が少なかったのです。法の力がなければ、あの巨大な魔難に抵抗する強い正念があるでしょうか。そして、彼女が7月に戻って来た時に、彼女の状態を知っているにもかかわらず、彼女に親切にして助けたり、試しにやってみようと思っていなかったのです。しかし、家庭状況が厳しい彼女にとって、帰ってくるとすぐに家計の問題に直面し、邪悪はこれを利用して彼女を深淵に引きずり込みました。私たちに責任がないと言えますか? 彼女が気が狂うほど同修を迫害しているのは同修に対する不満や恨みを発散しているのではないでしょうか。

 刑務所から戻って来たばかりの時、周りの同修の気遣いや助け等がとても大事です。このことをしみじみと感じており、同修の気遣いと無私な助けがなければ、こんなに早く法を正す進展に追いつくことはできないでしょう。そのため、誤った道に足を踏み入れた同修を差別しないで、更なる広い気持ちで受け入れて、助けたりして、せめて親切さや暖かい気持ちを感じさせて、私たちの無関心や拒絶によって同修がどんどん流されないようにしなければなりません。

 師父は「ですから、慈悲が現れると、この上ない力があり、いかなる良くない要素も解体されてしまいます。慈悲深くあればあるほど、力が強くなります。以前、人類社会に正理がないため、人間は善をもって問題を解決することができなかったのです。人間は従来、戦争という手段で人間の問題を解決していたため、これが人間の理となりました。人間は神になりたければ、人間の状態から脱皮したければ、この心を放下し、慈悲をもって問題を解決しなければなりません」[1]と説かれました。

 彼女たちが邪悪に迫害されて、あのようになったのは法理がはっきりしなかったからです。この厳しい迫害時期に法を出会えたことは、どれほど貴重なことでしょうか(彼女が修煉を始めたのは2008年)。全ては法のための生命であり、この結果はきっと彼女の最初の願望ではないはずです。

 師父は旧勢力の全てを認めないので、私たちも認めてはいけません。彼女を支配している邪悪な生命と要素を解体します。私たちの正の慈悲の場が大きければ大きいほど、不正の要素の抑制力と排除する力が大きいのです。同修の皆が意識すれば、邪悪が生存する場がなくなり、邪悪の支配がなくなり、操られた生命も解脱されてきます。

 師父は「実は慈悲は巨大なエネルギーであり、正神のエネルギーなのです。慈悲であればあるほどエネルギーが強く、どんな良くないものも解体されます。これは以前釈迦牟尼もほかの修煉者も話したことのないことです。善の最大の現れは慈悲であり、慈悲は巨大なエネルギーの現れで、すべての正しくないものを解体することができます」[1]と説かれました。

 この深刻な教訓を忘れてはいけません。善をもって下に落ちた学習者を助け、結果はどうであれ、少なくとも努力して試してみて、慈悲を修め、邪悪を解体することによって、旧勢力から人を救うことになります。 

 わずかな悟りであり、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地の説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/1/8/418223.html)
 
関連文章