22年圓満に描けない「家」(一)
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 法輪功学習者・于銘慧の家族の物語

文/容容  

 【明慧日本2021年2月19日】この中国人の女性は、「于銘慧」といい、黒い髪の毛に、特徴的な表情をしている。目は伏し目がちで、面持ちは柔和で、静かで落ち着いた印象だ。彼女には並々ならぬ感動的な物語がある。

二零一三年六月,于铭慧手里拿着营救父亲的明信片站在“真善忍国际美展”画作“孤儿泪”前。

父を救うハガキを手に「真善忍国際美術展」画作「孤児の涙」の前に立つ銘慧さん

 一、少女の悪夢

 22年前、銘慧の家は黒竜江省牡丹江市の西海林鉄道農場38棟にあった。1999年7月20日、家のドアが勢いよく閉まったその瞬間、銘慧の生活は完全に変わった。

 銘慧のかつての生活はどのようなものだったのだろう? 銘慧に与えられた部屋は大きくはないが、垂れ幕で隔てた小さな空間で、学習机、卓上スタンド、椅子は小さな銘慧が読書や絵を描く場所だった。父の于宗海は頭が良く、ユーモアがあり、芸術的な画家で、娘を見ると、優しそうに「こども」と言った。父は銘慧のことを「こども」と呼んでいた。いつも華やかで、物語を語ったり、絵を教えたり、食事の時には、箸を持って音楽の指揮をしたりした。銘慧が字を覚えてから、図書館で仕事をしていた父親は、毎週本の山を持って帰って来た。銘慧はすぐに読み始め、座ると動かなくなった。中学生になった頃には、図書館の児童書はほとんど読み終えた。母の王楣泓は非常に娘を可愛がっていた。北方の冬はとても寒く、中も外も3重に服を着た。母の細い手は銘慧に帽子を被せ、マフラーを巻き、手袋をつけてくれた。毎日欠かすことなく続けてくれた。

 その当時、寝る時に銘慧の耳にはモーツァルトのセレナーデが響き、朝起きた時は、法輪大法の音楽が耳に心地よく聞こえた。父と母は2人とも職場の模範で、銘慧の学校生活はく、勉強も良く出来、小学校の学級委員長だった。中学1年の時も学級委員長で、ほぼ全票で当選した。それから先生に国語と英語のクラス代表を任された。先生に表彰され、同級生に好かれ、当時の銘慧はいつもニコニコして、心配事すら知らなかった。

 1999年7.20、中共が中国で法輪功への迫害を開始した。数多くの家庭が壊滅的な災難に直面し、銘慧の家もその中に含まれていた。父親の于宗海と、各地の法輪功の輔導点の指導員が当日、警官により不当に連行された。その後、于宗海は北京の天安門に行って「法輪大法は素晴らしい」と言ったことにより不当に逮捕され、当地の労働教養1年に処された。また、スプレーで「法輪大法は素晴らしい」と書いたことにより懲役15年を下された。母親は「法輪大法は素晴らしい」と言ったことで、懲役11年を下された。銘慧もかつて洗脳班に閉じ込められたときは、まだ12歳だった。

 他の子供たちが父母の腕の中で甘えている時に、銘慧の少女時代は、汽車や自動車に乗って、はるか遠い道のりの、場所が違う二つの刑務所を行ったり来たりしていた。30分から数十分の面会を要求して、厚いガラス越しに、父や母に会い、懐かしい声を聞いた。父母が信仰を放棄しないことにより、わずかな面会時間が取り消された。希望にあふれて来た銘慧は、泣きながら再び帰るしかなかった。ある時、銘慧は牡丹江刑務所の接見室で、朝から晩まで父親を待ったが、父は現れず、職員が掃除を始めて、人を追い出したので、銘慧はうつむいて一步一步そこを離れた。

 于さん一家と法輪功の機縁は、1994年の春からだった

 二、不幸と幸運の出会い

 父親の于宗海は、1957年5月3日生まれ。牡丹江市の図書館に勤務し、美術広報に携わり、中国の水墨画、油絵、彫刻と書道に関わり、芸術に優れ、写真も上手かった。本職だけでなく、文化局も何か仕事があれば彼に声をかけた。仕事は勤勉、真面目で、何度も市から労働模範の評価を受け、省からは「先進的な労働者」と表彰された。

 銘慧が3歳のとき、30才になったばかりの父親が体調を崩した。リウマチ、骨髄炎、神経内膜炎、脊上靭帯煙炎、骨粗鬆症など、どれも治りにくい病に罹った。腰をひねらせ、椅子に座ったまま15分動けなかった。紙を落としたら、しゃがみ込んで拾い、小鍋も運べなかった。家の中の仕事は全て母がすることになった。職場は、物を運ぶ補助の仕事を与えてくれた。それから、指の関節が変形して、頭痛がして、手が痛み、腰が痛み、言葉で表現し難い痛みと苦しみで、于宗海は深夜2時になっても眠れず、壁に絶えず頭をぶつけた。上司は彼を連れ、天津へ診察に行った。彼の骨はレントゲンで蜂の巣のようであった。ハルビン・リュウマチ病院で、医者は彼に、両肩が内にねじれ、指の爪が厳重に変形したくる病患者を指さして言った。「あなたは半年でこうなる。この病は治療出来ない」。診察から帰ってきた于宗海は、幼い娘が嬉しそうに「パパ、パパ」と呼ぶのを見て、心が折れそうになった。

 ある日、気功愛好者の友人が于宗海に言った。「中国の長春からレベルの高い人が出て来た。小さな頃聞いた話では、祖父の故郷にかつて、世の中を渡り歩き、武芸に優れたある武術の達人がいて、家族は彼が雪の中を歩いたのを見たが、足跡がなかった。その人は『本当にレベルの高い人は、横暴でなく、手は綿花のように柔らかい』と言ったという。于宗海も武術を学んだことがあったが、練成しなかった。しかし世間には必ずレベルの高い人がいると信じていた。

 于宗海と友人は一緒に、法輪功の「長春第7期講習会」に参加した。そして于宗海の身体に一連の説明できない奇跡が起きた。一晩中汽車に乗っても身体が痛くなく、手足の関節も痛くなく、腰も痛まなかった。吉林大学の鳴放宮礼堂前に到着し、そこにいた人が叫んだ。「師父が来られました!」。于宗海は全ての天空が回転し始めたように感じ、彼の身体も強烈に回転し始め、彼は背後の柵をしっかり握りしめ、本能で「宇宙で大きなことが発生している」と感じた。

 師父が来られ、于宗海は他の人が師父と握手をしているのを見て、自分も行って手を伸ばした。于宗海の心身にかつてない感覚があった。押し合いへし合い、師父と対面した。師父は背が高く、穏やかで、面持ちは古代の彫刻の佛像のように見えた。于宗海は心の中で、「もしこの世間において本当に佛が現れたなら、必ずこのような容貌だ」と思った。

 それは4月最後の日だった。閉じられた講堂の中で于宗海は、本当にどこから来たか分からない暖かい天の風を感じ、今まで聞いたことのない大法を聞いた。次の日、師父は天目を開くことを説かれた。于宗海は他の空間の山水を見た。それは今まで、買ったことも、調整することも、見たこともない色で、明るく、潤っていて、透き通っていた。その素晴らしさ、美しさは、絵にかいたり、形容することも出来なかった。また講習会に参加した他の学習者たちの変化も見た。終始トイレが込み合っていたのは、数日前から身体が浄化されたからだった。トイレはみな混みあった。数日後、皆は相手に礼儀正しく接し、自発的に秩序良く進んだ。前の座席に1人の太った男が座っていて、数日前は人に支えられて歩き、出口の階段で歩けなくなっていたが、師父が来られて穏やかに「立ち上がって下さい」と言われると、彼は本当に立ち上がれた。師父は「歩いてみてください」と言われると、老人は本当に歩け、歩けば歩くほどスムーズになり、ますます早くなり、数日後には人の支えが要らなくなっていた。

 法輪功の講習会に参加した期間、于宗海の食事量が大きく変化した。小さいお椀一杯も食べきることが出来なかったが、大きな饅頭二つ、大きな器にお粥、6個の焼き餃子を食べた。知らず知らずのうちに、于宗海は自分の病を忘れ、今までの痛み苦しみの症状が完全に消えてしまった。不思議な事に、4日目の朝、彼は涙を流し始めた。時に彼は自分が師父の話された法理に震撼したことが分かり、涙がまるで堤防が決壊した河水のようにとめどなく溢れて来るのか説明が出来なかった。于宗海は師父の声や姿、一言一行を観察し、心の中で讃嘆した。以前はただ、佛陀は「慈悲と威厳が同時に存在する」と聞いただけでよく分かっていなかったが、今自分ははっきりと目の当たりにして、それを感じた。全てを包み込むような、思いやりがあり、無私無我で、強大無辺なエネルギーは音もなく全てを変え、全てが正に帰するのであった。

 学習班が終わった後、于宗海は同伴者に言った。「私はまだ聞き足りない」。それから、于宗海はまた、師父の「大連第二期説法クラス」に参加した。彼は心の底から思った。「これこそ私が探し求めていた師父だ! 大法はとても素晴らしい!」

 半年が過ぎて、于宗海は身体の障害が無くなり、完全に健康になった。1994年秋、図書館で200斤(100㎏)の麻袋に入った米を配分していた。来たばかりの大学生が担いだが、皆よろけて、地面に落としてしまった。重すぎるからだ。職場でそれを運べる人は一人しかいなかった。于宗海は自発的に階段を下りて、事務室にいる主任に言った。「私も彼と一緒に米を運びます」。主任はそれを聞いて、目を丸くして、「あなたが米を運ぶって?!」。于宗海は思いがけないことに一呼吸して連続で3袋も運んだ。彼の体重は60㎏しかなかったのに。一気に、部署の全ての人が湧きかえった。以前の于宗海は、病院で注射したり、薬を飲んだり、針灸や理学療法もしていた。職場の指定医は、長いこと于宗海を見ておらず、彼の同僚に会った時尋ねた。「もしかしてあの人は去ったの?」。同僚の回答はなかなかユーモアで、「歩いていませんよ、走っています」(訳:中国語では「去る」=「歩く」が同じ発音)。多くの人が法輪功の修煉に入り、職場の党員会議で、半分の人が法輪バッジをもっていた。社会で学ぶ人がますます多くなり、于宗海もまた、牡丹江市愛民区のボランティア輔導員になった。また面白い話もある。于宗海が映った10年前の写真を煉功点に持って行って、皆に回して見せると問題を発見した。「于さんはなぜ10年前より若いの?」

 母親の王楣泓は、インテリ家庭の出身で、牡丹江市地質調査所の高級技師で、職場の業務の柱だった。1995年、王楣泓は両胸にしこりができた。最後に乳房は硬く痛くなり、しこりが一面に広がり、医者は両乳房を切除するよう勧めた。王楣泓は夫の身体の奇跡を見たので、法輪功の修煉に入った。とても早くしこりが消失し、手術をせずに良くなった。

 あの時の家族は、仕事に行く人は行き、学校に行く人は行き、空いた時間に学法や煉功をして、忙しくも充実した日々だった。両親は小さな銘慧に、「ずる賢くなるように」とか「損をせず、どのように名利を争うか」などの教育はせず、反対に、「真・善・忍」に則って良い人になるように、他の人のために多く考え、名利は自然に任せるようにと教育した。父は常に銘慧をからかい「こども、今日は真・善・忍を出来たかい?」

 三、苦難の中の苦しみ

 毎回父母に会うと、彼らは銘慧に笑いかけ、励ましてくれた。父母は自分が受けている迫害には口を閉じて話さなかった。2010年、大学でデザインを専攻する銘慧は、学校により選抜され、海外で更に学びを深めるよう、イギリスのケンブリッジ芸術学院へ派遣され、ファッションデザイン科で学んだ。自由の環境の中、銘慧は明慧ネットを通して、父母の本当の境遇を知ったのである。

 江沢民のごろつき集団が、法輪功学習者(以下、学習者)に対して実施したのは、「名誉をおとしめ、経済を切断し、肉体を消滅する」、「殴り殺しても、打ち殺しても自殺とする」、「司法解剖をせず、直接火葬する」等の絶滅政策の下、法的機関は全て迫害機関になってしまった。公安組織は人を捕まえ、検察庁は起訴し、裁判所は判決を下し、不当に刑務所に監禁した。

 警察署で、父母は悪辣な手段を下された。父親の于宗海は、牡丹江市西安分局共和派出所、樺林派出所で、警官の阳明に酷く拷問された。取調室で、警官は2瓶に入れたマスタードオイルを于宗海の口と鼻に流して灌食し、呼吸困難になり、耐えきれない辛さだった。また専門訓練を受けた手下により継続して頭部を殴打され、頬の肉が裂け、血が激しく流れた。両足の甲は鉄の輪をかけられ、両手は背中で固定された。三つの鉄の鎖できつく前胸を縛り、鉄椅子に8~9日もつながれた。留置場で1リットルの瓶に水を満杯入れて、タオルにくるみ、(外傷がないように)頭へ振り下ろし、失神させ、首を打ち胸腔に入り、再び首を打った。それを「潰し固める」と呼んだ。

 2003年10月22日、母親の王楣泓は、牡丹江市新華派出所により不当連行される中、警官の蘇雷は、銃を母親に向け、違法な身体検査をした。6~7人の大柄の男の警官が母・王楣泓を取り囲み、王楣泓を7階から1階に引きずりおろし、無理やり車に引きずり込み、また髪を引っ張って車から2階まで引きずった。1人の巨漢が1冊の本を持って、絶えず王楣泓の顔を殴り、顔が腫れ上がり、衣服は引っ張られて破れた。牡丹江市東安区の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関。以下、国保)は、隊長の張富をはじめとする20人以上が交代で王楣泓に自供を迫り、睡眠をさせず、鎖で鉄の椅子に三日三晩縛り、脚がひどくむくんだ。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/6/419582.html)
 
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