口を修めないことは自ら墓穴を掘ること
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2021年4月8日】口を修めることは修煉者にとって、とても大切であることはよく知っています。以前、師父の『口を修める』の説法を重視して、よく暗記しましたが、真剣に修めることが出来ず、実践することが出来ませんでした。つまり法に同化することに至りませんでした。

 今日、自分の心を静かに、二十数年間自分が歩んできた修煉の道を振り返って見ました。自分は「修煉者として行ってきたのか?」と自し

 師父の説法に照らし合せ、師父が要求された「口を修める」基準に達していなかったのです。同修といると無駄話をしたりして、執着心に唆されて自分を顕示することが著しく目立っています。時には何の意味もないことでも聞き伝えに過ぎないなんらかの噂を伝え広めたりします。

 常に、自分の修煉に注意を払っていないため、言動が法に則ってないことが多くあります。常人社会での職業が教師であるため、弁舌に優れていて、どこにいても通用します。しかし、修煉の場合は真逆なのです。自分の弁舌は修煉に支障を来たし、一部の同修を傷つけることにもなりました。

 自分が能弁であることを意識しているため、周りにいる同修を評価したがりました。常人社会に多く見られる良くない風紀のように、第三者の前で、同修の名前を出して話題にします。話の内容は修煉に関わっているのですが、実質上は同修の向上の為の話ではなく、個人的な感情が入っていて、顕示心を帯びている会話です。自分自身に中国共産党(以下、中共)の文化が存在していて、陰で他人の噂をするのです。常に自分は他人よりも良く修めており、同修の問題点は自分なら見抜くことが出来ると考えていました。しかし、実はそうではありません。修煉者の実情は師父を除いて、見抜ける者は誰もいません。仮に同修の執着を見抜けるとしても、それは師父の按排だと思います。双方とも向上する必要があるからです。誠意をもって同修本人に話してあげることが真に同修の向上のための手助けなのです。第三者と陰で同修のことをあれこれ言うことは善なる行為ではなく、魔性が災いして口を修めない業力をつくることになります。同修の執着を目にしたときに、その執着は実はほかでもなく、自分の執着の反映の表われなのです。それを認識し、内に向けて探すことが出来れば、心性の向上もできるのです。しかし、私は自分を修めることをせず、自分を高める機会を多く逃してしまいました。

 先日、同修の家に資料を受け取りに行った時に、同修と少し会話を交わしました。同修の顔に私に反感を抱いている表情に気付きました、まるで私の話が彼女の機嫌を損ねたようでした。その場で同修に話していたのは自分の考えだけで、彼女とまったく関わりのない話でしたが、今思い起こせば、当時自分の言動に、他人を無理強いする、強硬な態度があり、善意を以って相手の立場で物事を考えていませんでした。自分の言葉は他人を傷つける内容かどうかを考えず、低姿勢ではありませんでしたので、自分の言葉を聴く相手が反感を持ってしまうのでした。

 陰で他人の噂をする言動は党文化の現れです。その言動がエスカレートすれば、人心で攻撃するのです。不平不満を抱く発言は徳を失い、他人にも自分にもプラスになりません。内に向けて修め、自分の心を修めて、心を修めることを工夫してこそ、ようやく真に向上することが出来るのです。陰で他人の噂話をしてはなりません、口を修めないことは自分をも害していることなのです。また普段でも他人に無礼な言葉を発してはなりません、常人社会でも良くない言動です。

 真の修煉者として、常に誠意を以って、謙虚に人と接することが出来れば、反感を持たれることはなくなります。師父が「一般的な例をあげてお話ししますが、わたしは何かをやりたいとか、今このことはどういうふうにやるべきだとか、こういうことでも無意識のうちに誰かを傷つけるかも知れません。人と人との間のトラブルは非常に複雑なので、知らないうちに業を造ってしまったかも知れません」[1]と話されました。

 実は、口を修めないことはまるで自ら墓穴を掘っているようです、遅かれ早かれ自分が掘った穴に埋もれてしまうのです。修煉者は内に向けて探さず、外へ求めることはどれほど大きな漏れでしょうか? 

 修煉は厳粛であり、修煉は自分を修めることです。口を修めることも修煉の一部です。修煉者は何かに遭遇した時に、自分を修め、内に向けて探せば、周りの環境も良い方向へ向かうはずです。

 個人的な認識です、法に沿ってないところがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/28/421437.html)
 
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