【明慧日本2021年5月8日】しばらくの間、同修が裏で私の悪口を言っていました。しまいに、いつのまにか私の耳に入ってきました。私は耳にした時、とても憤りを感じ、同修は自分に理があるという立場で悪口を言っていました。いつも断片的にとらえ、事実にも沿っていません。時々、私は我慢しきれず、どうだったのかを同修に説明しました。話したところで、自分が正しいと思い、裏で自分の悪口を言っている同修をさらに見下しました。同時に、隔たりが大きくなりました。
このことは同修の間で広がっただけでなく、常人の中でも知れ渡っていました。彼女達は同修に対して不平不満を抱く心で、私に出会うと、悪意をもって挑発的な言葉を言ってきました。この状況に遭うたびに、私は常人の忍耐の心で対処し、とても辛い思いで修煉し、とても嫌な気持ちでした。同修が話した言葉は、自分のメンツのためであり、真実を話していなかったのです。
私は、自分が理にかなっているという立場でものを見ているため、常人の立場に立って、事の中に入り込んで抜け出せませんでした。これらの事が時々、私の脳裏をよぎり、非常に怒ってしまい、いつも自分に理があると思っていました。これらの思想業力が毎日私の圧力となり、ストレスになりました。
私は疑心が生じ、自分を見ると気に入らない人がいると感じ、同修が私のことを何か言いふらしていると感じました。これらの事が自分の意思を乱しており、うつ病になりかけていると感じました。この時、はじめて師父に手助けしていただくことを思い出しました。私は心の中で師父に、「師父、私はどうすればいいでしょうか? 私は同じ次元にとどまりたくありません。私はどのようにこの問題に対処するのでしょうか?」
その後のある日、私は夢を見ました。夢の中で、ある部屋で、流行りの服を着た女性がおり、悔しそうに私に言いました。自分はこれほど苦労して行っているのに、かえって人から文句を言われます。私は彼女を慰め、悲しまないでください、と言いました。二言三言はなしたところで、突然、外で1台の車のドアが開き、1人の警官が降りて怒ったように歩いてきました。すると、あの女性が私を指さして「彼だ!」と言いました。私は説明するまもなく、何が起きたのか分かりませんでした。その警官は拳銃を私の頭につきつけて打とうとしました。私は両目を閉じて、自分が地面にひざまづいているように感じ、全く圧力も感じず、心の中で「師父に按配をお願いします」と言いました。
私が目を開けた時、夢から覚めました。拳銃が頭につきつけられた感覚はあまりにもリアルでした。もしかすると、人に何らかの説明をする必要はないということでしょう。もし何か人に言われても、執着してはならないということでしょう。この事を気にすれば気にするほど、これらの良くない物が生存する空間を与えてしまい、ますます私に見えるようにします。そして、私はそれらに撹乱されます。それらに対する反感が、かえって自分の思想業力を強くしました。心を込めて学法できなくなり、悪性循環となりました。後に、これを思い出して、自分に言い聞かせました。「人の自分に対する良くない現れは、自分の業力によってもたらしたことで、夢で見たように心が動じないようにしなければなりません」
ある日、「明慧子ども弟子体験修」で師父の詩『洪吟三』を聞きました。
辯(べん)少なしに
強辯(きょうべん)に遇えば争論す勿(なか)れ
内に向けて因を求むは修煉
釈明しようとすればするほど心重し
坦懐(たんかい)にて執着無ければ知見出づ
私は、最も重要なのは内に向けて探すことだと分かりました。
続けて、いくつかの事が起きました。同じことであっても、現れは全く違いました。真実であってもなくても、私には関係ありません。同修が話す時、私は自分の観念に気づきました。私は人が言うことが真実であることを求め、そうでなければ見下していました。
師父は「皆さんは今からも同じことになりますが、あなたが正しいかどうかに関係なく、この問題は一人の修煉者にとってまったく重要ではありません。言い争わないでください。誰が正しいか、誰が間違っているのかを強調しないでください。いつも自分が正しいと強調する人がおり、あなたが正しいのであって、間違っていませんが、それはどういう意味があるのでしょうか? 法に対する認識が高まったのでしょうか?」[1]
私の問題はここにあります。真に自分を高めていませんでした。ただ常人の理を語っているだけだったのです。常人の観念を基準にして問題を認識していたのです。実際、修煉者は学法を多くすること、内に向けて探すこと、自分の執着心を見つけること、発正念して排斥すること、取り除くこと、これこそ修煉者の道です。常人の理に阻まれることなく、常人の中で慣れ親しんだ観念と思想業力によって、内に向けて探し、着実に修煉の道を歩むことを阻まれないようにしなければなりません。
私は、自分が口を修めないことを認識し、自分に関係がない時でも議論しようとしていました。また嫉妬心が暴露され、これらすべてを取り除く必要があります。
以上は現段階での認識であり、同修は師を法としましょう。師父、ありがとうございます。同修の皆さん、ありがとうございます。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地講法十』「マンハッタン説法」
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、