文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年5月16日】賃貸をしている家の物件が満期になりました。借主が部屋を汚したままにしていたので、掃除婦を雇って3時間かけましたが、キッチンのコンロ側の壁を半分こすっただけで、家が汚すぎると言って掃除婦はやめてしまいました。
私は普段は郊外の母の家に住んでいますが、契約が満期になった物件のため、授乳中の子供を連れて一時的に北京に戻ってきました。掃除婦がやってくれないので、自分でやることにしました。そこで、週末の午後を利用して、普段は仕事で忙しい夫に子供を預け、夜遅くまで一人で部屋の掃除をしました。
かなり負荷の高い労働であったことと、また授乳期間中のため、夜の入浴後に右腕と背中が痛くなりました。指の骨も痛くなり、出産後の休養期間中に痛みがあった尾骨や腰椎にも鈍い痛みが出始めました(その後、煉功を再開し、出産後は通常の医療療養を受けなかったが、正常に回復した)。夜の10時頃には痛みが激しくなり、右腕と背中が冷たく、痛くてつらくなりました。夜中に、子供にミルクを与えた後も、痛みが止まらず、悪化し続けていって、右腕からすべての指が凍っているように冷たくなり、少し動かしても痛くなりました。
私は足を組んで坐禅し、「師父の按排だけを認めます。もし師父が弟子の業力を解消してくださるのであれば、私はそれに耐えますが、私の修煉の手落ちを利用して迫害しようとするのが旧勢力であるならば、それは決して許さず、認めない」と考えました。この時点で痛みは続いており、私は立ち上がり煉功をしました。動功をやる際、右手の動きが伴うとき、右肩に激しい痛みを感じ、右腕が何とも言えない耐え難い痛みがあって、右腕がすぐにでも不自由になりそうでした。静功をしているときは、右腕と肩や背中が口に出せないほど痛く、尾骨と腰椎も震えるほど痛く、静功を続けることができないほど心が乱れ、涙が止まらなくなったほどでした。
横になって寝るのも無理でした。ベッドで横になると右側の肩や背中が痛くなるので、そっとベッドに座って、うとうとするしかなかったのです。 夫はとても心配していました。私が大法を修煉することを支持しており、私が病院に行ったり薬を飲んだりしないことを知っていたので、ただ心配そうに私に服をはおり、私を働かせている自分を責めていました。
私は、師父が弟子を見守ってくださると確信して「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と何度も何度も念じましたが、痛みは一向に和らぐことなく、今回の業力解消にどれだけの時間がかかるかわからなくても、回復したら、今回の業力の解消の経過を書いて、大法を実証しよう」と思いました。このようにして、痛みと心からの九文字を念じる中で、私は無意識のうちに眠ってしまいました。
翌朝6時頃、目を覚まし授乳を終えると、突然不快な症状がすべてなくなっていることに気付きました。腕や指が自由に動き、尾骨や腰椎も軽く感じました。腕を伸ばしたり手首を回して見ると、すべての痛みが消えていました。前の夜に起こったことはすべて夢だったかのように、現実離れしたほどに消えていきました。
私は胸がいっぱいになり夫に「何事もなかったかのように元気になりました。師父、ありがとうございました。本当に不思議です」と話し、感激しました。夫もそれを聞いて本当に喜んでくれました。
午後の掃除のことを思い出すと、掃除の際に膝をついて床を磨いているとき、たしかに入居者や掃除のおばさんへの不満が生じ、見下したい気持ちと、また汚れることを気にしない自身の自慢する心が混じっていました。自分を火を起こして料理をしている「小坊主」のように、「苦を嘗めるをもって楽とす」[1]と感じていました。一瞬の思いつきとはいえ、自分の心の本音が出てしまい、それを正さなければなりませんでした。夫も「君は本当に強がりだから、掃除をやめさせようと思ったけど、君は頑固だからね」と優しく叱りました。
真の大法修煉者として、苦労を良いことだとすべきですが、身体の苦労は修煉ではなく、苦労自体が修煉の目的ではありません。最も重要なことは、心を修めることであり、圓満成就の志を立てることでした。長い間、修煉を続けてきましたが、いまだにいろいろな事がおきるとき、それにとらわれがちです。私の目に映るのは、常人が私をいじめていることや、常人がいかに悪いことをしているかということで、世の中に対する憤りや思いやりのなさを感じました。心の中の恨みや世間への思いやりのなさも、大法弟子の大いなる善意と忍耐には遠く及びません。
大法を修煉したため、心性が向上し、良い表れができています。それは元々大法の威徳ですが、自己顕示欲が強くなり、自分の成果を誇りに思い、競争心が強くなりました。それは大法の真・善・忍と相反するものではないでしょうか。そして、自慢すること、プライドを持つこと、強がりで勝利に拘ることは、魔性の現れです。
この心得を書き出す過程で、正法修煉のすべての栄光は師父と大法にもたらされることを悟りました。弟子として、天の功徳を貪ってはならないこと、これは非常に厳粛な問題です。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」