文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年5月19日】先日、2021年の神韻公演を見て、ある踊りにとても感動しました。(神韻は中国ではアクセスできないため、新唐人テレビが旧正月の頃に中国の観客向けに放送した)。この踊りは、唐時代の崔生の物語と、彼の奇跡的な体験を描いたものです。
道教の師は先天的に優れた資質を持つ崔氏を弟子に選びました。彼は鶴に変身した後、剣を持って師匠のいる山に行き、師匠の教えを受けて、崔氏は後継者になりました。しかし、不老不死になった後、師匠から「剣を返して、この世のことを終わらせてこい」と言われました。師匠は彼を守るために、神通力のあるにつのアイテム、神通力と透明マントを与えました。そして、世俗に執着したり、権力を乱用したりしてはいけないと忠告したのです。
しかし、剣を無事に返した後、崔生は透明マントが気に入ってしまい、王宮の中を歩き回っていました。皇帝の周りにいた方士に発見され、死の危険を招いてしまいました。では、彼はどうやって危機を脱したのでしょうか?
崔生は仕方なく神符を提示して自分の正体を明かしました。崔生が神界から使命を持ってやってきたことを知った方士は、皇帝を説得して崔生を釈放させたのです。
私はこの話から多くのことを学びました。特に、私たち大法弟子の役割についてです。大法の教えを通して、私たちは人々に大法とは何かを伝え、人々が救われ、神の世界に戻ることができるようにするという使命を知っています。つまり、私たちは創世主の使者なのです。さらに、師は私たちに法輪を与え、法身と護法神で守ってくださっています。
ですから、妨害や危険に遭遇したとき、私たちは自分の身分を明確にしなければなりません。
「僕は普通の人ではない。煉功者だ。法輪大法を修煉している僕にはこんなことをしないでほしい」[1]
「私は李洪志の弟子であり、他の按排は要らない、認めないと思えば、それらは恐れ怯えて手を下すことはできず、何でも解決することができます」[2]
このことを忘れてしまうと、自分に対する迫害を認めていることになり、被害者になってしまいます。
では、崔生はどのようにして危険を招いたのでしょうか? 剣を返した後、彼はいくつかの苦難の原因になることをしました。一つは、若い女の子が飴玉の串刺しを取りに行くのを手伝ったこと。これは普通の人にとっては何の変哲もない行為かもしれませんが、しかし、修行者は、この世の出来事には業力があることを明確にしなければなりません。そのため、神通力を使って世間のことに手を出すと、大変なことになります。
しかし、崔生は少女を助けただけでは終わらなかったのです。透明マントに執着して王宮内を歩き回り、おいしい食べ物を盗むなど、人間としての善や修煉者としての高い基準に反する行為をしていました。誰が誰から飴玉を奪ったか、誰が誰を殴ったり蹴ったりしたかは関係なく、世の中には善悪の因縁関係があり、それを管理する人間の法律と神がいるのです。警察は悪人を取り締まり、修煉者は師父の命令に従うだけです。今日の私たちも「俗世にいながらも、念はこの世にありません」[3]なのです。好奇心が、崔生にトラブルをもたらしました。 私たち大法弟子が修煉中に直面する悪魔のような困難の多くは、人心が呼び起こしたものです。師父は「人心を捨て去れば、悪は自ずから敗る」[4]とはっきり説かれました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇五年マンハッタン国際法会での説法」」
[4] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「哀しまないで」
【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】