頑固な執着心を取り除くことはなぜ難しいのか
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2021年6月6日】誰しも修煉の過程においてなかなか取り除くことが難しい執着心があります。それは何層もあるように感じられます。ある執着心は、何年もの間、気付かれなかったため、また、意図的に取り除こうとされなかったために、それは絶えず大きく成長し、さらに「身体の層」をも形成して、私たちが修煉の道を勇猛邁進することを阻止しています。その束縛を解き放つには、常にそれを分離して取り除かなければならず、最終的にすべての執着を取り除いて、真に人間の中から飛び出すことができるのです。

 一、頑固な執着心や観念が形成される理由

 人間は七情六欲を持っているため、常人社会で生活する中で、自分が傷つかないようにするために、徐々に自分を守るための様々な執着心や観念を形成したり、或いは成長過程で体験した好き嫌いなどを徐々に形成し、自分なりに物事を量る基準をつくり、徐々に一種の観念を形成して行くのです。中には非常に強いものもあり、誰かがこの観念や執着に触れると、すぐに反発したり、或いは耐え難い苦しみを感じたりするのですが、実際には、その観念や執着が抵抗しているのです。なぜならそれは真の生命で、死にたくないため、必死になってもがくので人体に作用して、あなたにそのような感覚をもたらすのです。

 師父はこう説かれました。「他の空間にあるその身体は大きく変身したり、小さく変身したりすることができますので、佛像に乗り移れば、この佛像は一つの大脳を持つようになり、思惟を持つようになります。しかし、身体はありません。他の人も拝みに行きます。拝んでいるうちに、佛像に一定のエネルギーを与えてしまいます。特に煉功者の場合はいっそう危険で、拝むと次第にエネルギーを与えるので、やがてこの佛像が有形の身体を形成するようになります。ただし、この有形の身体は他の空間で形成されたのです」 [1]

 私たちが修煉に入り、特定の状況下で執着心が生じると、最初生じた時は比較的弱いかもしれません。もし私たちが法理に基づいて絶えずそれを修めていかなければ、このような考えが浮かんで来る度にそれを強めることになり、徐々にそれにエネルギーを与え、最終的には他の空間に有形な身体を形成してしまいます。実は、どんな執着心でも、ただ執着の度合いと執着の対象が違うだけなのです。ここで、病業の関を例に分析します。

 例えば、ある同修に病業の虚像が現れたとします。もしそれが一般的な風邪の症状であれば恐れることなく、恐怖心を抱くこともありません。しかし、一旦命に関わるような症状や、或いは身体が激しい痛みなどで苦しい時、恐怖心が生じて来ます。なぜならその病業の現われはあまりにも常人の症状と同じで、苦しみの感じ方までまったく同じだからです。この時、人間社会で形成された経験や観念が作用をして、考えの中でこのままだと危険だ、或いは症状から何かの病気の症状だと思わせますが、実はその観念が彼の大脳に反映したものなのです。しかし、修煉者として、もし法に基づいて認識できず、人間と同じような認識を持ち、このまま考え続けていけば、恐怖心が次第に大きくなり、「身体の層」を形成してしまいます。

 明慧ネットに掲載された交流文章「恐怖心を取り除く」の著者は、恐怖心が透明でガラスのような「身体」であることを目にしました。彼女に恐怖心が生じるたびに、心臓の所からグレーの霧のような物質が噴出し、身体を包み込みました。私は大変ショックを受けました。またこれらの頑固な執着心と観念が「身体の層」であることが、より鮮明にかつ真実として理解できました。

 形成されたこの「身体の層」の観念や執着心も一種の業力の現われであり、師父がおっしゃたようにそれはあなたに苦しみを味わせます。それは生きている生命であるため、あなたが常にそれにエネルギーを補充すれば、それが強くなり、やがてそれはあなたをコントロールすることができます。それはあなたを苦しませ、動揺させ、むしゃくしゃさせるだけでなく、あなたの身体に辛い症状を引き起こします。実際、それはすべてこの「身体の層」がやったことであり、なぜならそれは死にたくないため、生きるためにあなたを苦しませ、あなたを怖がらせ、あなたを屈服させ、それにより自分の命を伸ばそうとあなたを制御する目的に達することができるのです。

 二、法理をもって量り、頑固な執着と観念を取り除く

 頑固な執着心や観念がすでに「身体の層」を形成していることは明らかなので、それが再び反映される時、つまりそれがあなたの身体に作用した時、どのように捉えるのかが肝要なのです。

 一部の同修は苦しくなったら、それに影響されてしまい、自分が苦しいと思います。このように考えてしまうことは、ほかならぬ人間の理で量っていることになります。というのも、人間は心や身体の辛い思いを自分のものではないと考えることができないからです。ならば、修煉者としては常人を超えた認識で、法理で量るべきではないでしょうか。執着心が現れて自分が苦しい時は、ちょうどそれが反映されたことで、それが必死に生きようとする現われではないでしょうか。

 私たちは皆、坐禅の時に組む足の痛みにより業を滅することについて理解でき、受け入れることができます。では、この執着心が反映され、自分が苦しい時、なぜそれを坐禅する際の業を滅することと同様に扱うことができないのでしょうか? 師父は私たちに「実は物質と精神は同一のものです」[2]と説かれました。ですから心の執着から反映されてきた心配、恐怖、イライラなどは、たとえ心の中の辛い反応であっても、私たちは坐禅の中で業を滅することと同じように、これこそそれを取り除く過程であると、はっきりと認識すべきです。それは業を滅するもう一つの形なのです。

 師父はこう説かれました。「時間が経つにつれ、あなたの体にあなたの姿形と全く同じもう一人のあなたが出来上がります。このもう一人のあなたは執着によって構成され、あなたを制御しています。とても強い執着があなたの姿形を形成したため、あなたの心を制御してしまうほど強い力を持っています。とても強い心によって形成されたからです」 [3]

 私は悟りました。人間としてコントロールされないようにすることは非常に難しく、しかし修煉者としては超越した理をもって自分自身を律しなければならず、もはやそれらにコントロールされてはならないのです。執着心が現れる度に、たゆまずそれを排除し、解体しなければなりません。それらが死を恐れるので反映されるのだということを、はっきりと認識し、それを消滅するよい機会なのです。

 師父はこう説かれました。「あなたがそのものは要らないと言うだけで、そのものが死んでしまうのであれば、これはあまりにも痛快な話です。そのものをわきまえることができると同時に、あなたは強くなり、目覚めてきているので、そのものによる包囲を突き破っているのです。あなたがますます強くなれば、そのものはますます弱くなり、消滅され、最終的に消滅されてしまいます。これには過程が必要です」[4]

 私は悟りました。頑固な執着や観念は、意識していなかったために、すでに大きくなっています。この「身体の層」を消去するには時間と過程が必要であるため、愚公移山(ぐこういざん:大きなことでも、根気よく努力し続ければ必ず成功することのたとえ)のような決心と正しい心を持ち、私たちが絶えずこの「身体の層」を取り除けば、それはますます小さくなります。私たちがそれらの制御から完全に抜け出せた時こそ、それらが消滅される時なのです。

 三、学法発正念で、頑固な執着と観念を取り除く

 私が知っているある同修は、以前突然足に激痛が走り、ベッドの上に座っていることしかできず、あえて動くこともできませんでした。ほかの同修が彼女にそれは虚像だと教えてあげても、その激痛はそれほどリアルに彼女の身体に現れていたので、彼女は心の底からそれが虚像だと認識することができませんでした。彼女も当時、自分が基準を満たしてないことを知っていました。どうしましょうか。これほど強烈な恐怖心はどうやったら取り除けるのでしょうか。彼女は毎日学法をすることに決めました。彼女は私にこう告げました。当時恐怖心が生じる度に、あらゆる種類のマイナスな感情を制御することができず、自分はもう半身不随になるのではないかと思ったのです。幼い子供たちを見つめながら、当時は夫もそばにいなかったため、彼女は孤立無援で非常に苦しかったと告げました。

 彼女は法を勉強することしかできませんでした。しかし法の勉強をやめた途端、すぐに怖くなってしまいました。彼女はただひたすら勉強し続け、1日6時間ベッドに座って法を学ぶことができました。ようやく3カ月が経過し、ある日突然、恐怖心が薄れて来て、歩けそうな気がしたので、床に降りてみました。それまでは、無理に床に降りても、心臓が引き裂かれるような痛みで、そのたびに震えてやめるしかありませんでした。法を多く勉強することを通して、偉大な師父が彼女を助けて、恐れの「身体の層」を取り除いてくださり、彼女は元の健康と幸せな状態を取り戻す事が出来ました。これは法を学ぶことの重要性を示しており、師父の説かれた「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」 [5]という法を実証しました。

 発正念を強化することも、頑固な執着を積極的に取り除くための具体的な方法です。明慧ネットに掲載された交流文章「恐怖心を取り除く」という記事の著者は、同修のために発正念をする過程で、その恐怖心で形成されたガラスのような身体が砕け散るのを見ることができ、発正念の威力が強大であることを体験しました。

 頑固な執着心と観念は恐ろしいものではありません。私たちがそれを取り除きたいという正しい考えを持ちさえすれば、絶えずそれを見分け、取り除き、最終的にそれから抜け出すことができ、それを解体することができるのです。

 以上は、今の次元における私の悟りです。法に基づいていないところがありましたら、慈悲なるご叱正をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『ニュージーランド法会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『2019年ニューヨークでの説法』
 [4] 李洪志師父の著作:「オーストラリア法会の説法」
 [5] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」

 【編集者注:この文章は筆者の現在の個人的な観点を代表しているものであり、同修と切磋し、「比して学 び、比して修す」ものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/5/28/426204.html)
 
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