文/アメリカの大法弟子
【明慧日本2021年7月13日】最近、中国では大法弟子に対する「ゼロ」行動が各地で起きています。それは大法弟子に対する新しい形の迫害行為です。明慧ネットの文章を通じて、「ゼロ」行動に対して大法弟子が行った様々な対応を知りました。恐れる人、避ける人、「修煉を止める」という誓約書にサインした後にまた明慧ネットに「厳正声明」を出す人、「修煉を止める」誓約書に他の人にサインを代筆させる人、警察官や町内会の人が家に来たら彼らに真相を伝える人、進んで派出所に行って真相を伝える人、迫害を認めず、警察に真相を伝えることもせず、ひたすら発正念をする人、相手を思いやる立場から、家に来た警察に必ず真相を伝えると主張する人もいます。
まず私自身の修煉を振り返ってみると、20年以上も修煉しているのに、ずっと修煉の核心を掴んでいないことに、最近やっと気づきました。例えば、トラブルの時、法理ではかるのではなく、相手の言動が正しいかどうかを測り、相手を責めます。若しくは極端に走り、自分にとても厳しく、結局、自分自身をとても緊張させています。その間、実は闘争心、嫉妬心、顕示心を除去していません。
迫害がまだ起きていない時、20代前半の私は中国で修煉していました。夏は暑くてエアコンがないので、昼休みにプールで泳ぐこともあります。修煉者は暑さを恐れるのは執着心であり、プールに行くべきでないと私を非難する中高年の同修もいました。一方、彼女たちは、中国共産党(以下、中共)のプロバガンダである中央テレビのニュース番組を毎日見ており、それこそ執着心だと思います。修煉者がどうして共産党のプロバガンダを見るのですか、私は小さい頃から共産党の政治宣伝が人間性に反していると思って好きではありません。
あの同修たちは、年を取ったから運動したくなく、水泳もしたくないために若者が水泳に執着していると言いますが、テレビを見ることも執着心ではありませんか。また、明慧ネットでこんな文章を読んだことがあります。ある修煉者は食べ物に嗜好と執着心がないため、子供に美味しいものを作らず、他の同修が子供に美味しいものを渡すことを拒んでいました。子供は大きくなると、修煉はとても辛いと思って修煉を止めました。当事者の同修は、「食べることに執着しない」ことを子供に強要し、他のことにおいても自分の考えを子供に押しつけているのかもしれません。とうとう子供は修煉を離れました。
私の知っている同修のAさんは、夫が水虫を患って足がかゆいのですが、Aさんは夫に薬を使わせません。夫は修煉者ではないのですが、痒み止めの薬を使わせてもらえません。とうとう夫は法輪功に反感を持つようになりました。Aさんも前述の同修も、法理を正しく理解しておらず、私心を除去していないため、家族に対する思いやりが足りないと思います。
自分は暑さを苦手としないので、プールに行く人を「執着している」と言います。自分は食べ物に無頓着なので、時間を節約するために子供にも美味しいものを作ってあげません。自分は痒いのが辛くないので、夫にも我慢させます。これは自分を修めているのでしょうか、それとも法理を以て家族を修めさせているのでしょうか。修煉の表面上のものを重視しすぎていると思います。一方、こうやっている修煉者たちは、名利心、金に対する貪欲、恨む心、歓喜心、恐れる心などを取り除いたのでしょうか。
私が悟ったのは、実は最も強い人心は師父が『轉法輪』の中で列挙された顕示心、嫉妬心、闘争心、歓喜心、恐れる心、色欲心です。その中で顕示心、嫉妬心、歓喜心に対して特別に一節の説法があり、闘争心と色欲心は、「煉功して魔を招く」の中にも述べられています。法に照らして自分自身の執着心を掘り下げなければ、修煉は向上できません。安逸心も大きな執着です。上述したような人心と魔性を本当に重視して、除去する努力をすれば、安逸心も自然的に弱くなり、もっと精進できると思います。
話を戻しますと、どのようにすれば「ゼロ行動」を認めないことに繋がりますか、発正念だけをすれば足りるのですか。恐れる心を除去し、善を以て衆生のために思い遣ってこそ、はじめて迫害を否定できると思います。本当に無我無私の状態になることができれば、はじめて旧勢力の計らいを否定できるのです。
【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」ためのものです】