内に向けて探し人心を取り除けば柳暗花明又一村
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文/陝西省の大法弟子 氷蓮

 【明慧日本2021年7月24日】私の以前の職場は、比較的安定した国営企業でした。2015年の「江沢民告訴」のうねりには私も実名で参加しましたが、それを知った会社は、巻き込まれることを恐れたのかもしれません。マネージャーからしばらく職場を離れるよう勧められました。私ははっきりした態度で彼女に「あなたたちが、私の江沢民告訴を理由に私を離職させるなら、個人の信仰を理由に差別していることになります。しかしもしあなたたちが責任を負わされたり、巻き込まれるのを恐れているのが理由なら、私は理解できます」と言いました。そして彼女に「江沢民告訴」の電子版を見せました。「江沢民告訴」には確かな証拠があるのだと彼女に知ってもらうためです。しかし、彼女はただ上手くなだめるだけでした。彼女は私が職場を去るのをとても惜しんでくれましたが、それは会社の決定であり、彼女にも為す術はありませんでした。

 半年後、マネージャーはたくさんの人に私の行方を尋ねた末に、私と仲の良い友達を探し出して私に電話してきました(私は職場を離れてから、電話番号を変えていました)。マネージャーは「また職場に戻って来て下さい」と言いました。私が「職場は、巻き添えを恐れているのではありませんか?」と訊くと、彼女は「あなたが書面に一筆書いてくれれば、それを会長に渡しますから、それで大丈夫です」と答えました。私は「それではだめです。私は何も書けません。今の職場の体制では、私が戻ってもあなた達に差別されるでしょうから、戻れません」と言いました。マネージャーは私の話を会長に伝えると言って、その話を持ち帰りました。

 数日後、会長がマネージャーを通してまた私に連絡してきました。マネージャーは「会長は、あなたに仕事に戻って来てほしいと切実に願っています。あなたが書面を書きたくないなら、書かなくて結構です。ただ戻って頂ければよいのです。以前と同じように、誰もあなたを差別しません。それは個人の信仰の問題ですから。仕事が良く出来れば、退勤したあとは何をしても職場は干渉しませんし、私たちも干渉しません。実を言うと、今回のように職場を離れた人に心から復帰の提案をするのは、これまでに無かったことです」と言いました。

 こうして私は職場に戻りました。戻ると半年分の給料も貰えました。私は師父の説かれた「自分のものなら、無くなることはないし、自分のものでなければ無理に争っても得られません」[1]の法理を深く体験しました。

 2018年下半期、会社の組織改革によって私たちの部門がなくなりました。会社は、従業員に転属を打診してきました。しかし私には別の理由があり、離職を選択しました。その後、私は民間企業で働きました。実際に働いてみると、国営企業と民間企業の差異は非常に大きく、マネジメントに慣れませんでした。また、民間企業では異業種の仕事であり、全てが初めてのことでした。全て最初から学ばねばなりません。あいにくとこの会社の責任者は、田舎の気が強い女性責任者でした。毎回の定例会議では、彼女は名前こそ出さなかったものの、参加者をいつも罵っていました。日常の管理業務では、彼女は正面からどう問題に対処すべきなのかを教えることもなく、口を開けば人を罵り、口汚く罵っては、下品な言葉を口にしていました。

 彼女はどうして普通に会話ができないのだろうか? 私は以前の職場で8~9年働いていて中堅社員でした。マネージャーも私には丁寧な言葉遣いで、とても尊重されていました。それが今ではこのような環境に直面しています。どうすればいいのでしょう? 最初、私は自分を1人の修煉者だとみなし、「これは自分の人心を錬磨しているのだ、忍耐しよう!」と思っていました。しかし事態は私が思ったほど簡単ではありませんでした。私たちの仕事は2交代制で、私がいるグループは5人です。そしてその中の2人は私を困らせることばかりして、新人いじめをしていました。私は毎日自分の仕事を全て終わらせていましたが、彼女たちは、自分のすべき仕事を私に丸投げしていました(作業工程が明確に分かれていないこともあり、私はただ別のグループのやり方を見て、自分たちの分担を決めていました)。

 彼女たちは責任者に、私がとても自分勝手で、怠けていて、手伝ってくれないばかりか仕事を押しつけてきて、ずるい等々と言っていました。しかし実際は、私は彼女たちに押しつけられた仕事をして時間がいっぱいいっぱいで、出勤から退勤までずっと絶え間なく働いていました。少しの休憩時間もなかったのです。時には、彼女たちが向こうで座って休んでいて、私は1人で彼女たちがやるべき仕事をしていました。彼女たちは、手伝いにも来てくれませんでした。

 毎日がこのようで、定例会議では責任者から指摘され罵られました。責任者は名指しはしませんでしたが、誰が聞いても罵られているのは私だと分かりました。私は面子を重んじる心、人から指摘されたくない心、怨恨心が限界まできていました。

 ある日、姉(同修)に会って、この事を話し、姉に法理から私を悟らせてくれるよう頼み、私の問題がどこにあるのか見てほしいと頼みました。話しているうちに、私は苦しくなって泣いてしまいました。内心に抑えていた悔しさが、まるで堤防が決壊して水が溢れるように出てきました。実際、この数十年間、私はこのように泣いたことはありません。黒い巣窟で迫害に遭った時でさえ、ここまで泣きませんでした。泣き終えると、だんだん落ち着いてきました。

 姉は「まず、自分自身から問題を探してみましょう。あなたは以前の職場でとても優秀で、マネージャーからとても頼りにされていたわね。でも今はこの職種の中で、あなたは一気に一番下まで落ちてしまった。確かに仕事に慣れるまでは時間がかかるわ。でも、私たちは修煉者で、師父がおられ、法があり、私たちの仕事も含めて、全ては師父が私たちに按排されたことなのです。偶然なことはなく、その中に必ず私たちが取り除くべき人心があり、私たちが向上する要素があるわ」と教えてくれました。

 そうですね。私はもう少しで旧勢力の罠にはまるところでした。それは私の執着心を利用して私の仕事環境を破壊し、私の仕事を失わせようと企てていたのです。いったん仕事を失うと、私が「三つのこと」をするのに影響します。私はなぜこんなにぼんやりしていたのでしょうか!

 師父は説かれました。「複雑な環境は、わたしは逆に良いことだと思います。複雑であればあるほど、その中から高人が現われてくるのです。こういうところから抜け出せるようでしたら、その人の修煉は最もしっかりしたものといえます」[1] 師父の法は暖かい流れのように、私の長い間凍っていた心を溶かしてくださいました。

 法理がはっきりしたので、内に向けて自分を探すべきです。私は心を落ち着かせ、この間の出来事を順に辿ってみると、本当に悟ることができました。

 まず、自分の名を求める心を見つけました。以前の職場では中堅でしたが、今は初級の生徒で、面子の上で乗り越えられていませんでした。次に、自尊心があって、人から指摘されたくないのです。以前のマネージャーは私をとても尊重し、礼儀正しく接してくれました。今は自分に及ばない人に、あれこれと口出しされます。また不平の心もありました。以前の仕事では各方面の業務にどれも精通していて、丁寧な仕事と責任感で、上司から信頼と励ましを受けていました。今は、1人の生徒として、業務に疎く、スキルも人より劣っています。

 最後に、人から指摘されたくない心です。以前のマネージャー、同僚は私を称賛し、「年度業務模範」と評されていました。今は、人から教えてもらい、訓練を受け、人から指摘されます。また嫉妬心、怨恨心もあります。いつも、もう一つのグループがあんなに穏やかで、互いに助け合い、黙々と協力しているのを見て、嫉妬していました。私のグループのメンバーが、私にこんなにも不当なのを恨んでいました。

 これらの心を見つけてから、私の心は一気に開けてきました。心が軽くなった心地よさは、言葉では言い表せず、まるで胸にあった巨大な石が取り払われたようでした。

 師父は説かれました。「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています。」[2]

 問題の所在を見つけてから、私は、法の中から自分を正し始めました。自分の怒りや憎しみは「名」からきているのではないか? 自尊心も情が作用したものではないか? 強大な自尊心が満足できないとき、怒り憎むのではないか? また不平の心と、人から指摘されたくない心は、強大な自我ではないか? 自我が衝撃を受けたとき、不平を感じるのです。人から指摘されたくない心の中には、自我を堅持し、自我を手放したくないという本質があります。

 私は怒りや憎しみ、不平が生まれる根本的な原因を見つけてから、自分を正しました。私は以前の穏やかで善良で寛容な心を取り戻しました。不思議なことに、そうすることで、私の仕事環境に劇的な変化が生じました。私は別のグループに異動することになったのです。新しいグループメンバーと溶け込んで今に至りますが、何の衝突も生じていません。私の仕事量も正常になり、私たちは皆で一緒に仕事して、一緒に休憩しています。

 さらに意外なことに、責任者も優しくなり、汚い言葉がとても少なくなりました。たまに彼女が定例会議で話すときも要点を話すだけで、以前のようにすごい剣幕で怒ることはありません。

 師父は説かれました。「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです」[3]の法理からもう一層の内函を深く体得しました。

 弟子は師父の慈悲なる啓示に感謝します!

 個人の体得で、もし法に則っていないところがあれば、同修からの慈悲なる指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「忍とは何か」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/7/15/428187.html)
 
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