文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年8月5日】「法を正すことが終わる時期に対する考えと予言」という記事を読んだ後、言及されている多くのことが大法にそぐわないと感じました。違和感を感じながらも、インターネットにアクセスできない同修にこの記事を伝えたいという衝動に駆られました。私も少し興奮していたようで、数分後冷静になって、「なぜ、この記事に違和感を感じながらも、急いでシェアしようとしたのか? 私はこの記事から何を得たかったのか?」を考えました。
自分を見つめ直した結果、私には大きく分けて2つの執着があることがわかりました。まず第一に、私は自分が記事に書かれているような一歩踏み出した大法弟子だと思っていました。そして、自分は師父に認められ、法を正す時期の大法弟子の基準に達しており、完成の基準に達するために充分なことをしていると思っていました。実際には、大法弟子の基準を満たすためには、まだ多くのことをしなければならないと感じています。まだ三つのことのどれもがうまく行っていないのです。どんな言い訳をすればいいのでしょうか? 師父は、中国共産党が崩壊するには何人の脱党者がいればいいのかという質問に、指を5本立てて回答されたそうです。多くの修煉者は50%の人を救うことを指しているのではないのではないかと思っていました。なぜなら中国語で「五」の同音異義語は「無」を指し、人を救うのに上限はなく、できるだけ早く、できるだけ多くの人を救うようにすべきだと説かれているのかもしれません。
第二に、記事は法を正す期間の終わりがまだ長いと予測しているのを見て、私はそれを受け入れることができませんでした。これ以上の迫害には耐えられないと思ったからです。迫害されるのが怖くて、これ以上苦しみたくないと思ったのです。
師父はこうと説かれました。「わたしは長年の修煉を経ており、わたしが何を考えているのか他人には分かるはずがありません。他人の功能は全然わたしの中に入って来ることができません」[1]誰も法を正す全体を見ることはできず、師父のみがすべてを按排していることは知っていますが、それでも上記の記事は、法を正す終わりへの執着、圓満成就への執着、迫害への恐怖、安逸心など、私の多くの執着に触れました。これらの執着は本当に露呈して、完全に取り除かれるべきものです。私は時間への執着があることは分かっていましたが、たまにしか考えないのでそれほど強くはないと感じていました。しかし、この記事を読んでから、私は法を正す終わりの時間への執着があまりにも強く、私の世界の衆生、私の周りの一般の人、そして私の環境全体に、ある種の影響を与えているのではないかと気づきました。
明慧の記事は、大法弟子全体の修煉の状況を反映していると常々感じており、毎日明慧の記事を読むことで、同じような問題に直面し対処することができます。しかし今回は、私が取り除いていない執着が、大法弟子全体の状態に深刻な影響を与えているのではないかと考えました。
師父は説かれました。「誰も他人を責めるまでもなく、みんながそれぞれ一役買っているのです。ですから誰でも修煉すれば必ず苦難に遭遇するのです」[1]なぜ、私はあの記事に振り回されたのか? 執着を消せないからこそ、あんな状態になったのではないか? 2020年のアメリカ選挙以降の自分を振り返ってみると、トランプ氏の再選を確信していたのに別な人が大統領になり、その後の現実を受け入れざるを得ず、動揺したり、憤慨したり、失望したりしましたが、最後には落ち着きを取り戻しました。
師父が教えてくださいました。「しかし年をとり、月日が経つにつれて、前途に希望がなくなるので、その執着心もおのずと放棄するようになり、すり減って無くなってしまうものです。これと同じような方法をそれらの小道も採っているのです」[1]
私の執着の多くは、単に覆い隠されているだけで、消えてはいないことに気づきました。日常の世間一般のニュースに執着していたとき、日常的に迫害が厳しくなくなる兆候を探していました。ですからこの記事を読んで以来、ウェブサイトはほとんど見なくなり、パソコンに向かって過ごす時間も短くなりました。時には10分だけ、明慧ネットから記事やラジオ放送をダウンロードしてから切断したり、たまにニュースを読んだりしていますが、これでは心が動かないようです。
また、私が予言に執着するのは、超能力や歓喜心、顕示心理などの執着心を反映しています。師父は「功能は本より小術 大法こそ是れ根本」[2]と説かれました。予言に注意を払いすぎることは、ただの執着だけでなく、不二法門の問題を含んでいます。もし、自分が超能力に執着したために、超能力を持つ人と接触する中で、その人に様々な悪い執着心を生じさせてしまったら、私たち自身も大きな業を作ってしまったことになります。同時に、歓喜心を持つことは、予言を語ることが好きで、語りたいと思うことであり、それがかえって口を修めないという問題を引き起こす可能性があります。
最近、私は明慧ネットの記事では、【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】という編集部からの注釈が加えられていることに気づきました。他の多くの記事でもこのような注意書きがされるようになりました。これはすべての修煉者にとって、修煉の機会を大切にするための戒めでもあると思います。 私が大切にしている明慧ネットは、師父が大法弟子たちに与えた浄土だと信じています。明慧ネットの同修たちはとても懸命に、献身を大切にして働いているので、明慧ネットを維持し、この貴重な機縁を大切にしなければなりません。
以上、私の現時点での理解ですが、法に基づいていないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「正法の門を求む」