文/中国の大法弟子 昭日
【明慧日本2021年8月13日】姑が嫁と仲良くすることは、永遠の難題です。争わないということはまれなことです。しかし私はとても幸運です。なぜなら私の姑は法輪大法を修煉しているので、私は世界で最も幸せな嫁になりました。
一、大法を修煉し聖なる縁を結ぶ
1999年3月、私は法輪大法を修煉し始めました。7月20日、中国共産党(以下、中共)が法輪功を迫害し始めました。テレビ局は一日中法輪大法を中傷するニュースを流し、高い知性がなくても、すべてが嘘とデマであることがわかりました。厳粛な思考を経て、私は法輪大法のために真相を伝えなければならないと決めました。
私は文化大革命を経験していませんが、法輪大法のために立ち上がることが何を意味するのかは知っていました。天地を覆い隠すかのような圧倒的な弾圧に直面し、私も恐れました。その時、職場では全員クリアしなければならず、態度を明らかにすることを強いられ「煉功しません」という保証を書くだけでは不十分で、さらに罪状摘発書を書かなければならず、終わりがありませんでした。しかし私は決意し「法轮大法、千古奇冤(法輪大法への迫害は、千年の不正)」という8文字の大きな文字を筆で書き、大法を守るために出ていきました。
あっという間に、10年以上が過ぎました。私は法輪功のために無実を訴え、不当に累計5年間拘禁され、すべてを失い、婚姻も決裂しました。本当の心性の修煉を経験していなかったために、迫害される中で、私は極端に走り、心身に大きな障害を受けました。私自身も「なぜ私は修めても慈悲と和やかな状態が出て来ないのか?」と腑に落ちませんでした。
ある日、私はある同修に会い、その同修の母親も大法弟子でした。そのおばさん(訳注:同修の母親)はいつもにこにこしており、そのおばさんに会って以来、私ははじめて何が「和やか」なのかを実感し、私は全身がぽかぽかになりました。それまで、迫害に遭ったために、私は同修たちといつも散らばってしまい、本当に接触した古い同修はあまりいませんでした。私の周りには一つの安定して着実に修める環境が欠乏しており、体も悪くなり、顔色はいつも黄色かったのでした。
おばさんは私の状況を深く心配してくれました。おばさんの息子は独身で、私の性格も補うことができ、慎重に検討した結果、みんなが家族を作ることに同意し、一つの新しい修煉環境を作りました。このようにして、おばさんは私の姑になりました。一時期、親戚や友人の間で「法輪大法を修煉しているので、二つの家族は良縁を結んだ」と広まりました。
二、大法の清らかな善で心の創傷が治癒した
私は両親の目の中では良い子であり、高い成績を収めた学生であり、安定した仕事と明るい未来を持っていました。ただ本当のことを言ったからといって、仕事をやめさせられ、賃金を止められ、軟禁され、連行され、不当に労働教養を科され、不当に実刑判決を下され、離婚を余儀なくされ……、母親はそのために涙に暮れ、父親は強いストレスの中で性格が変になりました。当初、両親は中共の嘘にごまかされ、大法を理解せず、私の修煉に強く反対しました。しかし、私の確固たる選択はまた、両親に「暴力で人に信仰を放棄させることはできない」ということをを理解させました。十数年間、私の両親は大きな苦痛を受け入れてきました。
私は刑務所から戻った後、性格がだんだん敏感で怒りっぽくなり、時には火薬庫のように、少しのことですぐに爆発しました。私が父親に三退を勧めた時、父親は脱退しないばかりか、さらに中共を擁護しました。私は怒り、いつも父親と口論しました。私自身も間違っていることがわかっており、ただ感情を抑えきれませんでした。私と父親がけんかしているのを聞くと、母親も一緒になって神経質に「天よ、地よ」と叫びました。家族全員が一日中憂い顔でした。
将来の義理の両親に会った後、私の両親は暖かさを感じ、自分の娘に本当に関心を持ってくれる人がいるのを見て、両親は心から受け入れ、また感動しました。とはいうものの、両家族が一緒に引っ越したばかりの時は、やはり難しいものがありました。
姑は自分の部屋の中に師父の写真を置く準備をしました。私の母親は最初反対し、その後に狂ったように泣き叫びました。姑は、十数年来自分と息子は正々堂々と大法を修煉し姑の夫が健在の時も100パーセント支持し職場もできる限り大法弟子を保護し姑はいつでもこの種の姿勢を見てきたのではなかったか、と唖然としました。姑は今のこの環境の難しさを感じていましたが、姑は何も言わず、この家に行き届いた関心と配慮をし始めました。
結婚後、私は夫と仕事に出かけました。姑はまるで姉のように、私の両親を連れて新しい生活を始めました。姑はとてもてきぱきと働き、動作が機敏であり、優れた料理スキルを持ち、揚げ物、炒め物、煮込み、色と風味が揃っており、麺類やおつまみなど何でもこなしました。新年や節句のたびに、姑はよもぎ餅を巻き、春巻きを巻き、調味料を作り、肉や卵を煮込んだり……美味しさはプロのシェフに負けませんでした。私の両親はこんなに有能な人を今まで見たことがないと舌を巻きました。
3人のお年寄りはにこにこして一緒に日々を過ごし、もともと冷たく静かだった家庭が活気づき、隣人も次々と祝福してくれました。姑は一日中にこにこしており、まるで喜びの泉が絶えず姑の心から外に向かって溢れ出ているかのようでした。姑の顔を見さえすれば、気持ちはすぐに明るくなりました。姑はたとえどこに住もうと、3カ月経たずに、近所との関係はとても良好になりました。
姑はおしゃべりがとても好きで、姑は優しく囁き、外の仕事でも家の仕事でも、おもしろいエピソードがあり、その描写が生き生きとしていて真に迫っており、何でも話しました。話しているうちに、修煉者の見識と經歷に融合しました。姑は私の両親にはっきりと伝え、法輪大法が素晴らしく、大法弟子が善良であることを私の両親は知り、法輪功を鎮圧するために中共が真っ赤な嘘をでっち上げたことを知り、中共を追いかける人々がどれほどかわいそうであるかを理解し、また世界にはまだ大法弟子を助ける大勢の善良な人々がいることを知りました。
だんだんと、私の両親の態度は180度大きく変わりました。私の母親は過去に法輪功に激しく反対したことを後悔しました。多くの場面で、私の母親はまじめに懺悔し、自分が中共の嘘を信じたことを責めました。私の母親はインターネットで三退を行い「厳正声明」を書きました。以前に嫌がらせに来た中共の人間に直面し、母親は正当な道理をふまえ言葉遣い厳しく、自分の体験を用いて江沢民の迫害政策が人々にもたらした壊滅的な災害を非難しました。私の母親はさらに勇敢にも私たちと一緒に実名で元凶である江沢民を告訴しました。
私の父親も観念を変え、江沢民による法輪功に対する迫害がどれほど邪悪であるか、法輪大法がいかに人々に心身の健康をもたらすのかを正確に認識することができました。父親は自ら姑のためにきれいな額縁を手作りし、師父の写真をきちんと掛けました。さらに私の母親と居民委員会に交渉に行き、居民委員会の人たちが大法弟子の家庭に嫌がらせに来ないように要求しました。
こんなに善良な1人の姑が、もともと家族全体を包み込んでいたもやを吹き飛ばしました。私は時にはそばでリラックスして楽しんでいる両親を見て、姉さん株のような姑を見て「真に大法を修めるとはなんとこのようなことだったのか! あの水晶のような清らかな善と、あの黄金色に輝く喜びは、とても素晴らしい! 私はとても幸運で、このような縁に出会うことができた」と心の中で千万無量の思いでした。
三、偉大な法が作り上げた無私の修煉者
法輪大法を修煉する前、姑は完全に別人でした。生活の変遷と苦難が、姑の攻撃的な性格を育ててきました。姑は幼いころは幸せでしたが、共産党が来てから、家産は略奪されました。長女として、家族を助けるために、姑は早くに中途退学し働きに行きました。雑貨を売り、使用人としての仕事を行い、工場へ行き、多くの仕事を行いました。姑は動作が機敏で、頭が良く、みんな姑を好きでした。しかし他の人が彼女を利用することは困難でした。
姑は頭が良くて能力も高いのですが、40歳を過ぎて、健康が悪化し、早期退職を余儀なくされました。息子は再び不幸にもまれな肝疾患に苦しみ、たくさんの医者にかかりましたが、良くなりませんでした。数年後、死にかけました。一家が心身ともに疲れ果て、絶望の中で悩みました。
1996年、息子は法輪大法を修煉しました。わずか3カ月で、病気がすべて治りました。その日の素晴らしい出来事はすべての親せき、友人、同僚を震撼させました。法輪功はいったいどれほど素晴らしいのでしょうか? 私の夫(訳注:姑の息子)は「当時『轉法輪』はまだ出版されておらず、煉功の動作を追っていただけでした。1年中薬を飲んでいたために、口が苦く、少しも食欲がありませんでした。煉功してたった1日で、私は食事が食べたくなりました。だんだんと、体に力が入り、私は日一日とよくなっていきました。私の体内の毒素が絶えず一掃され、手にはめた銀の指輪はすべて黒くなりました。3カ月後、母親が私にコムギ粉を階下から運ばせました。母親は私を抱きながら『素晴らしい! 素晴らしい! 私の息子は良くなった!』と言いました」と回想しました。
息子が全快した後、姑も法輪大法を修煉し始めました。すぐに、すべての病気がなくなりました。ある時、姑は全身に不快感を覚え、吐きたくなりました。「オエ」と大量の鮮血が地面に噴き出しました。姑はすぐにトイレに行き、たくさん吐きました。まだ吐きたい感覚があり、思い切って大きな洗面器を持ってきて続けて吐きました。結果、こんなにも次々と、鮮血が洗面台の半分を占め、中はさらにまるで卵大の黒ずんだ血の塊のようでした。
姑はまったく怖いと感じず、姑は全身に熱を感じ、頭ははっきりしていました。師父が自分のために身体を清めてくださっているのだ、と姑はわかりました。吐き終わった後、今度はお腹が痛くなり始め、トイレに行くのに苦労し、下痢し始め、石炭のように黒いものがたくさん出てきました。このようにまるまる1日苦しい思いをさせられ、夜になり、姑はベッドに倒れ、麻痺したような顔になりました。隣人はみな「彼女は死ぬだろう」と言いました。
家族全員の理解と支持の下、姑は病院に行かず、家で大法の師父の説法の録音を聞き、大法音楽の「普度」と「済世」を聞きました。姑は頑張って、できる限り多く煉功しました。このようにして、ゆっくりとお湯を飲むことから、お粥を食べ始めるまでになり、さらに食事をし始めました。半年後、姑は完全に回復しました。それから、姑は人が変わったようになり、もともと痩せ顔と痩せた体が、丸い顔と太った体になり、もともとの憂い顔も満面に笑みをたたえ、色白でうっすらと赤みがさしてきました。
生命の長患いから解放され、姑は心から晴れ晴れとし、リラックスしました。抜け目のない強さはなくなり、取って代わったのは明るくて幸せな気持ちと、熱心さと思いやりでした。姑は心から「師父は私を新しい人間にしてくださいました」と感謝の気持ちを抱きました。家族全員が救われ、真・善・忍の佛光の下で、本当に言葉では形容できない幸せでした。
1999年中共が法輪功を迫害した後、姑は同修たちと道義上後へは引けないとばかりに大法を守り、大法を実証し、衆生を救い済度する道を歩みました。姑は何度も北京に行き、天安門広場に行って横断幕を広げ「法輪大法は素晴らしい! 師父の汚名を返上せよ!」と高らかに叫びさらに無事に戻ってきて、大法書籍を保護し、同修を保護するために、姑はあらゆる方法を尽くし、大きな圧力を受けました。姑は同修たちと一緒に、法輪功の真相を街と地方に広め、ビラを貼り、真相チラシを配り、真相資料を送り、横断幕を掛け……、姑はどこに行っても真相を伝え、どこに行っても三退を勧め、たとえ夫が迫害されてこの世を去り、自分が不当に判決を下され、息子が住居を追われ、遠く離れ離れになったとしても、姑は1日も怠ったことがなく、十数年が1日であるかのように大法弟子が行うべきことをしっかりと行いました。
ある時、姑は法輪功の真相資料を配りに行きました。団地の廊下に入った後、姑は上から下に向かって配りました。3階まで配った時、4階のある男性が「誰だ?! そこで止まれ!」と大声で叫んでいるのが聞こえました。続いて「ドン、ドン、ドン」と重い足音が階上から駆け下りてくるのが聞こえました。姑は急いで階下に降り、走りながら「この人を動かないように師父にお願いいたします!」と心の中で師父に助けを求めました。振り返った瞬間、その男性がまぬけのように、凍りついたような状態になっているのが見えました。姑はこうして逃げ出しました。
さらにある時、真相資料を配り終え空はすでに暗く、近道から家に帰るために、姑は1本の畑の中の道を通りました。急いで歩き、突然滑り、大きな水たまりに落ちました。その時の状況は危険で、空が暗くて手を広げても5本の指が見えず、水はすぐに頭の上に達しました。姑は泳げず、さらに太っており、死に物狂いでした。姑はすぐに「師父、助けてください!」と心の中で大声で叫びました。あっと言う間に、ある力がすぐに姑を持ち上げ、姑の頭が水面に出てきました。すぐに、姑の足は地面を踏み、岸に着きました。姑は少しずつ這い上がりました。姑は感激し、命を救ってくださった師父への恩にすぐに深く感謝申し上げました。
法輪大法を修煉した後、姑は1人の普通の主婦から1人の大いなる善と忍を持った大法弟子へと成長しました。姑は難を受けた同修も助けました。かつて、ある女性同修は、中共に迫害され、寝たきりになってしまいました。家族は理解できず、その同修を放っておきました。姑は自分が法を学び、煉功し、人を救うことを遅らせることなく、同修の世話をする責任を負いました。毎朝、姑は同修の家に行き、同修のために料理やスープを作り、同修の体をふき、洗濯し、同修を励まし、法を学ぶのに付き添い……、麻痺患者の介護は非常に疲れるものですが、姑は何年も介護をし、いつも親切に付き添いました。その同修は迫害を受けて亡くなりましたが、同修の家族は大法弟子がみな本当に良い人たちであることをようやく理解しました。
四、永遠の母親
私はとても幸せでした。姑が私を実の娘のように扱い、大切にしてくれたからでした。結婚したばかりの頃は、私は消業がとてもひどく、ベッドから起き上がれないことが何度かありました。姑はいつも私を大切に見守ってくれ、布団をかけてくれたり、お粥を作ってくれたりしました ……。修煉の道では、姑はさらに正しい道に導いてくれたりもしました。
知識人が大法を学ぶ上での大きな障害は、自分の複雑な考えに囚われてしまうことでした。「内に向けて探す」ことについて、私はずっと内に向けて探すということは自分自身を振り返ることだと思っており、勇気をもって誤りを認め、勇気をもって改善したので、自分の修煉は大丈夫だと思っていました。姑と出会ってから、はじめて内に探すことの意味を本当に理解しました。
姑は私のように多く考えておらず、姑はとても純粋で、そうすることが修煉だと思っていました。姑は毎日3時半に起床し、煉功の後に法を学び、とても規律よく、一日頭がすっきりして気持ちがさわやかでした。トラブルや問題に遭遇すると、姑は私のように考え込んで眉をひそめるのではなく、冷静に向き合い、平和的に解決していきました。私の夫も同じような感じでした。
私には考えはたくさんあっても、基本的なことができていたでしょうか? 朝の煉功は起きられず、坐禅もきちんとできず、法を学ぶ上での規律もなく、いつもとても神経質で不安定で、心も不安定でした。長い間同じような関と難に陥り、いつもうまく乗り越えられず、感情をコントロールしても初めは盛んですが終わりは振るいませんでした。結婚して初めて、自分が全く修煉していない状態であることに気づきました。
師父は「一人の人間が修煉しようと思うことは決して容易なことではありません。お話ししたように、それはきわめて厳粛なことであって、常人の域を超えており、常人のいかなることよりも難しいのです」[2]と説かれました。
私にとって、修煉は何よりも難しく、不思議なものでした。常人の本を私はたくさん読んでおり、さまざまな理論を知っていました。しかし大法を修煉した後、私は毎日『轉法輪』という本を大切にしていましたが、本当の意味での法を得ていませんでした。自分が思っていることを見てはならず、考えることはすべて三つのことであり、自分の考え方それ自体が問題であることを誰が知っているでしょうか、自分の考え方は私を物事の真ん中に陥れてぐるぐる回し、そしてすべての念の背後に隠された執着を見つけることなく、また大法の無限の内涵を理解することも難しかったのでした。
姑を鏡にして、ようやく自分の複雑な思考が修煉の最大の障害になっていることに気づきました。この問題を解決するために、私は基本的なことから始め、それは規則的な朝の煉功、学法、発正念でした。それを行うことでやっと修煉になりました。朝の煉功は私にとって、ずっと苦手でした。ある日4時半に起きるのは大変でしたが、次の日には挽回することができました。仕事が忙しいなど、私はさまざまな理由を見つけました。姑は私に説教することなく、私の家庭の負担を軽減するために全力を尽くし、仕事を早く終わらせ私により多くの時間を確保させました。
しかし人間の心はとても狡猾で、うまくいかないと自分に言い訳をして、姑に対する大きな依頼心が生まれました。このような精進している古い同修と一緒にいて、私は再び大法を確信し、私も合格した大法の弟子としての資格を持っていると考えました。そこでたとえうまくできなくても、だんだんと心の安らぎを感じるようになりました。姑は私がお手本として姑を頼っているのを見て、修煉の観点から、姑はそれが姑の子供への情を放下させるためだと理解していました。私たちの生活が基本的に安定していることを確認してから、姑は2、3カ月の間、たまに郊外の友人や親戚を訪ねるようになりました。このようにして、私の依存心は緩和されました。
2年後、姑は実家に戻る決心をし、同居しなくなることになりました。姑がいなくなるのはとても残念でしたが、私たちは姑の意思を尊重しました。別れを告げた後、姑は去り、私たちは姑が日の光の中に消えていくのを見ていました。
姑が去った後、3時30分に起き、目覚ましが鳴ってはね起きるのは、意外にも楽でした。煉功の後も、一日一睡もせず、、次の日も時間通りに起き、疲れを感じませんでした。私はまったく信じることができず、どうやって起きることができたのでしょうか? 朝の煉功を堅持し始めてからは、私はエネルギーが湧いてきて、坐禅するとどんどん入静できるようになり、学法も入心しました。
師父は「静にして思わざれば 玄妙を見る可し」[3]と説かれました。
自分の考え方を振り返ってみると、過去の心の動き、念が動じたことはすべて有為であり、すべて執着であることが見えるようになりました。真の知恵はありったけの知恵を絞って「考える」ものではではなく、むしろそれは大法から来るものであり、師父が私に教えてくださったものであり、そのすばらしさは言葉では言い表せないほどでした。
今(訳注:2021年5月)では、私は夫と一緒に、毎日3時半に起きて朝の煉功をするようにしています。1時間の抱輪の音楽が発表された後、私たちも延長して1時間抱輪し、朝早くから法を学び、毎日必ず『轉法輪』を1講学び、すでに3年間続けてきました。修煉の基礎がしっかりしていれば、法を実証する修煉の道はどんどん広がっていきました。
姑が実家に戻ってから3年が経ちました。振り返ってみると、私は気づけば気づくほど、母親として、姑は私たちに最も偉大で無私の母性愛を与えてくれ、大法修煉者として、姑は法輪大法の中で修煉して出てきた純粋さと慈悲の心を見せてくれました。私たちは一緒に師父の広大な佛恩の中に浴し、師父の慈悲深い救済を無にしません。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」