「忍」についての私の理解
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文/香港の大法弟子  

 【明慧日本2021年8月16日】

 一、涙をたたえて忍ぶ

 ある日、姉と四川省の三星堆遺跡(さんせいたいいせき)のニュースについて話し合いました。三星堆の文化は先史文明の遺産なのか、それとも地球外文明の介入なのか、2人で議論して盛り上がっていました。それを聞いた夫が大激怒で「君たちは、他の主張の客観性に目もくれず、自分の信じたいことを信じているだけだ」と批判し始めたのです。

 最初のうちは我慢できたのですが、その後、個人攻撃がどんどん進んでいくうちに、怒りが理性を消し去ってしまい、「私は修煉者だから怒ってはいけない、怒ってはいけない!」と自分に言い聞かせました。私は考えながら自分の手を握り、攻撃性と怒りを抑えようとしましたが、最後に涙をこらえきれず、「わー」と声をあげて泣いてしまいました。師父の写真を前にしたとき、心の中の罪悪感と無力感から自分を責め、なぜ怒りを抑えられなかったのかと、自分の忍耐力のなさを深く反省しました。

 その夜、私は教室にいる夢を見ました。師父は入り口に立ち、私に微笑んでくださいました。私は師父に、なぜ自分をコントロールできないのかと尋ねました。師父は自分で悟るようにとおっしゃったようでした。

 夢の中で、私は内に目を向けるようになり、最後に師父が帰るところで、師父に「師父の手を握ってもいいですか」と尋ねました(以前、記事を読んだときに、弟子が「師父の手は柔らかい」と言っていました)。師父は笑顔で私に手を差し伸べてくださいました。夢の中で師父の手を握った感覚がとてもリアルでした。夢の中で涙が止まらず、内心では自分の努力不足を責めていました。

 目が覚めると、夫への恨みが消えていました。リラックスして落ち着いていて、心が広くなりました。

 毎回、文句を言ったりキレたりすると、翌朝の座禅する時に足が痛くなっていました。(以前は座禅するとき足が痛くなることはほとんどありませんでした)。心の葛藤に出会うたびに、私は瞑想中に足があまり痛くならないようにいつものように「我慢」し、まるで自分が道徳的に優れているかのように振る舞ったりもしました。

  今考えてみると、この考えはあまりにも狡猾で、常人(一般の人)の我慢であり、この一見偶然の衝突を通して、私の心の中により深い執着心を見つけました。今後は、常に自分自身を大法に照らし合わせ、師父の要求に応えていきたいと思います。

 そのことに気付いた私は、夫に心から謝りました。すると、夫は嬉しそうに「君は争い事があっても、自分の内面を見つめることができる。素晴らしいね!」と喜んでくれました。また、姉にもこのことを話し、もっと法を学び、法で自分を量って、律してみると言いました。

 二、慈悲なる忍

 あるとき、展示会のブースを手伝いました。私は、人々が法輪功迫害の真相を聞くのを妨げるすべての干渉を排除するために、頻繁に正念を発しました。友人の母親が展示会に来て、自分の子供のことで文句を言い続けていました。彼女の発した言葉からは強い共産党文化を感じたので、私は子供たちの良い面に目を向けるように頼みました。

 私は信念や、中国共産党がいかに伝統文化を破壊したかについて話しました。彼女は「正しい信仰を持つことは素晴らしいことです」と答えたので、中国共産党とその関連組織から辞めることを話しました。彼女はそれに同意してくれたので、大法についてさらに詳しく説明しました。彼女は、自分の子供たちにも大法を紹介してほしいと希望し、修煉に興味があると言いました。

 また、私が他の人に迫害の真相を明らかにしたとき、いくつかの否定的な意見を受け取りました。彼らは、以前に迫害の実態を聞いたことがあると言いましたが、多くの修煉者の伝え方が好きではありませんでした。

 修煉者の中には、口調が厳しすぎる人や、真相を明らかにすることを形式的に捉えている人もいるのではないかと感じました。もしかしたら、思いやりを持って真相を明らかにしていなかったのかもしれません。修煉者の中には、人々に話をするときに焦っていたため、人々が大法について誤解してしまったのかもしれません。

 冷静になって見てみると、私も同じ問題を抱えていました。事実を伝えようとするあまり、話し方に気を配れないことがあったのです。人々が大法を誹謗中傷したとき、私は冷静ではいられず、彼らに同情する気持ちもありませんでした。思いやりのある正念が持てず、邪念まで起こしてしまい、これでは人を救う効果が得られないばかりか、他人に否定的な見方をさせてしまうのです。

 師父は「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」[1]と説かれました。

 師父は「道家は真・善・忍を修煉する際に、主に真を修煉します。ですから、道家は真を修め、心性を養うことを重んじ、真実のことを話し、嘘偽りのないことをし、正直な人間になって返本帰真し、最後には修煉が成就して真人になることを目指します。もちろん、それには忍もあり、善もありますが、真を重点的に修煉します。佛家は主に真・善・忍の善を修煉します。善を修煉すれば、大いなる慈悲心が生まれます。慈悲心が生まれると、すべての衆生が苦しんでいるのを見て、衆生を済度しようとする願望を持つようになります。真もあり、忍もありますが、善を重点的に修煉するのです。われわれの法輪大法という法門は、宇宙の最高の基準─真・善・忍に基づいて同時に修煉するので、われわれの修煉する功はとても大きいのです」[2]と説かれました。

 私は忍の中には、真と善があることに気づきました。忍を実践することは慈悲につながり、同時に大法を圓容することになります。私たちのすべての考えが大法の基準に適合すれば、私たちは徐々に向上し、真に慈悲の心を深めることができると思いました。

 三、得失を度外視する忍

 数日前、夫は科学と信仰の違いから、科学の客観性を信じることに消極的な私に対して、またしても暴言を吐いたのですが、その時に思ったのは「なんでこの人はそんなにこだわるんだろう。毎回、彼に合わせるのは本当に大変だ」ということでした。考えた瞬間は、自分の考えが生まれるまでの過程が、ほんの数秒で一世紀にもおよぶような、とても長い時間であると感じました。また、1秒が1年に引き伸ばされたような感覚が長い長い間、この考えが頭の中にあったように感じました。

 その状態を静かに感じていると、ふと宇宙の「成・住・壊・滅」の教えを思い出しました。長い時間の中で思考も劣化していくのだとゆっくりと感じました。 師から伝えられた永遠の大法は、問題が悪化しても修復し続けるので、時間が経っても徐々に「壊」してしまうことはありません。

 私は突然、すべての思考を修めることの重要性に気づきました。宇宙の特性に適合しないすべての思考は、本当の自分のものではないことに気づきました。悪い考えが湧いてきたときにそれを排除しなければ、その考えは私たちの次元に存在し続けることになります。

 さらに内に向けて自分を吟味してみると、人に批判されると気分が良くないと感じることがあるとわかりました。この感情は非常に微妙なものですが、それは私が法の基準に達していないことを示していました。

 師父は「常人の苦楽を気にせざれば 乃ち(すなわち)修煉者 世間の得失に執(しつ)せざれば 羅漢なり」[3]と説かれました。

 執着を手放すと、心の幅が広がり、法をより深く理解することができます。

 以上は個人的な認識なので、適当でない所があれば、慈悲なる指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「三界を飛び出る」

 【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/16/423356.html)
 
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