文/アラブ地域の大法弟子
【明慧日本2023年12月15日】私の最近の修煉状況を共有したいと思います。私はまだ天目は開いていませんが、座禅の中で以下の光景を見ました。
ある日、私は座禅している時、突然、世の中の人が知っている、ある一面が苦しんでいると感じました。具体的にどの人か、または人間のどの部分、主元神、副元神かは分かりませんが、ただ、人間の内面の一部だと言えるでしょう。彼らの状況はまるで人が約1メートル×2メートルの籠に閉じ込められているようで、動物が籠の中を行き来するように、この小さな場所で我慢するのは非常に難しい状態です。
私はあの閉じ込められた、息苦しさ、焦燥と辛さにこれ以上耐えられず、解放を切望する気持ちを強烈に感じました。これは私が初めて感じたことで、たちまち涙が溢れました。世の中の人々は生活を楽しんでいるように見えますが、実際には身体の表面の外殻だけが生活を楽しんでいるに過ぎず、真の自分は苦しみを受け、救いを待ち望んでいるのだと私は分かりました。
私が経験したことは「慈悲」の状態への第一歩かもしれないと感じましたが、まだ「慈悲」の状態には入っていないと思います。もし私と同じ次元の同修と限られた理解で、衆生の苦しみを感じることがこれほど強烈ならば、慈悲なる師父は法を正す過程の中でもっと強く感じておられるのではないでしょうか? 師父は衆生の苦しみをこの目で見て感じておられ、師父が受けておられる辛さを誰が想像できるでしょうか。
これはおそらく、師父が私たちに自分をまずしっかりと修煉してから衆生をより良く救い済度できるようにと繰り返し教えてくださる理由かもしれません。また、衆生の救い済度に対する緊迫性をどの程度に感じているかは、実は修煉者の次元によるものであり、その次元が十分でなければ、この緊迫性と深刻さを本当に理解することはできず、衆生が本当に苦しんで、待っていることもわかりません。
怨恨心を放下する
修煉にはさまざまな側面がありますが、ここではそのうちのひとつ、他人に対する恨みをなくすことについて話したいと思います。私は職場の同僚の何人かに思いやりを持たず、彼らは私に直接的に目立つ害を与えていないのですが(悪口を言われたことは除いて)、彼らは人の前で悪い行動、主に嫉妬やプライドを見せ、私は彼らに対して怒りや恨みの感情を抱くようになりました。
しかし、上記のような修煉の経験をした後、私の見方が変わりました。悪い行いをする人たちのほとんどは、実は無知からそうしているのであり、分かっている側面はそうしたくないのです。彼らは苦痛を受け続け、(大法弟子の)助けが必要なのだと私は分かりました。もちろん、修煉者はこのことをよく理解することができ、これらはすべて修煉者が現在一般的に知っていることであり、理解していることでもあります。しかし、大法と慈悲深い師父は、私たちにこのことをより深く感じさせ、まるでそれが本当に私の身に起こっているかのように思わせるのです。
そこで私は気持ちを落ち着かせ、笑顔で同僚に挨拶をするようにしました。次第に、私は彼らに会う回数が増え、彼らとおしゃべりをするようになり、私たちの心の中のしこりが解けていきました。そして、2人の同僚が私に心から謝ってくれる夢を見ました。
私は長年修煉してきましたが、私を不当に扱ったり、私を怒らせたりした人たちに対する恨みを完全に取り除いたわけではありません。時折、私は中国で迫害を受けている修煉者たちが、まだ迫害に加担している人を救おうと懸命に努力していることを思い出しました。私は彼らのように他人を許し、大目に見ることができるでしょうか? 私は「忍」をどれだけ修めたのでしょうか?
師父は法の中で何度も説明してくださり、私たちがこの世で見ているものは本当の状況ではない、物事の本当の側面を見れば、私たちの全体的な見方はまったく違ってくるでしょう。偉大な師父は無限の慈悲をもって、私のいる次元で一部の真実の状況と光景を一時的に見させてくださいました。この経験のおかげで、私は「忍」と「慈悲」を修めることに取り組むことができ、しっかりと師に手伝って衆生を救い済度し、大法弟子としての肩書きに恥じないようにしたいと思います。
以上が私の現在の次元での悟りです。大法に合わない点があれば、同修からのご指摘をいただければ幸いです。ありがとうございます。