修煉は学法を重視しなければならない
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――私の教訓

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年8月20日】私が法輪大法の修煉を始めたのは、1994年から1995年頃です。当時、私は小学校に入ったばかりなので、法を得た具体的な時期を覚えていません。物心がつく頃になると、大人たちと一緒に学法煉功をして、子ども弟子になりました。学生時代にはかなり精進している時期があり、三つのことをしっかりと行っていたのですが、卒業してからはだんだんと気が緩んで常人になってしまいました。身体が危険な状態になり、もう駄目だと感じた時、ようやく目覚めました。

 教訓は極めて深刻なものでした!

 『北米での巡回説法』を読んだとき、私は思わずほっとして、「師父は、邪悪な生命に操られ悪いことをした人に対しても、『私は弟子を当初来た時のままに戻らせますが、彼らは何も持ち帰りません。そして、戻ってから、彼が代表した厖大な天体は全て空になり、元々あった全ての生命もなくなります。なぜなら、彼の修煉が良くできていないため、全てが悪くなり、淘汰され、再び造り直すしかないからです』[1]と説かれていて、それならば、私は精進していないだけなので、その人たちより安全だろう。もう心配しなくていい、圓満成就しなくても淘汰されることはないのだ」と思いました。

 その時から次第に怠慢になり、「自分はずっと修煉し続けており、精進していないけど、邪悪に屈したこともないし、『三書』なども書いていないから、何の汚点も残していない」と思っていました。自分で自分を慰め、法の中から師父の言葉を見つけて口実にし、自分はまだいい方だと思っていました。たまに真相を伝えることもありますが、どうせ最後には自分の位置に戻ることができて、ただ精進している人たちよりは次元が低いだけなのだと思っていました。法を読んでいる時に、師父の口調がとても重いと感じることがありましたが、師父は自分のことではなく他人のことを指摘されており、自分とは関係ないのだと思いました。

 私は20年以上、毎日の学法と煉功を中断したことはありませんが、毎日一節か二節しか読んでおらず、数分で終わらせていました。まるで仕事場でタイムカードを打つように、毎日の任務を完了させる気分でした。今日の任務がようやく終わり、今から遊びに行くことができるのだと思ったりします。煉功もきちんと行っておらず、坐禅をする時に時々寝てしまいます。退屈だったので、何か楽しいことを見つけたいと思い、テレビゲームやインターネットのポルノに夢中になりました。知らずしらずのうちに身体に病業が現れ、だんだんと重症化していき、自分の肉体が駄目になっていくのを感じ、まだ30歳なのに、60歳の人の体力にも及ばなくなりました。

 以前は、北国の極寒の冬でも防寒服を着ずに外を歩いても風邪をひかないほど体力がありました。会社の同僚は、私と一緒に大法を学んで、防寒服を買わずに済むように節約したいと冗談半分で言ったことがあります。私は当時、「私は20年以上も修煉し続けて今の自分があります。でも風邪を引かないというのは無理ですよ」と言いました。もし私がしっかりと精進している状態であれば、あの時、同僚たちを大法に導いていたかもしれません。そのことを考えるたびに後悔しました。私は「昔はとても健康で、何年も病院に行かなかったし、自分が修煉しているからこそ健康であることを知っている人が多くいるので、このまま死んでしまったら、あまりにも恥ずかしく、大法の名誉に泥を塗ることになり、絶対死んではいけない」と考えました。

 その時から、テレビゲーム、ネットゲーム、携帯ゲームもやめようと決心し、長年集めてきた愛着のあるゲームをすべてパソコンから削除しました。色欲については、今でもたまに考えますが、努力して排斥しています。

 以前は、毎日数時間パソコンの前に座ってゲームをしていましたが、今は、少しでも時間があったら学法するようにしています。それらの悪い念を一度に取り除くことはできなくても、少なくとも頭の中に多く法を入れて、法を多く勉強すればするほど悪いものの割合が減ると考えました。自分は、問題が起きた場合、一時的な解決策として学法するのは、苦しい時の神頼みになりますが、多く法を勉強すれば必ず役立つと思っていました。その時初めて、師父が各地の説法の中で、何度も繰り返されている言葉すべてが自分のことを指していることに気づきました。修煉の中で起きたことは偶然なことではなく、自分が読んだ内容は悟るべきものであり、今までそれを避けて重視していませんでした。今になって認識できましたが、10年以上経過し、多くのものが失われてしまいました。おそらく、私によって救われるべき無数の衆生が失われてしまいました。

 長い間、多くの時間を無駄にしたので、今はどんなに頑張っても、精進している大法弟子たちと同じようにはなれないことを知っています。私は修煉において、できていないことがたくさんありますが、自分の教訓を書かなければならないと思いました。それは、必ず学法を重視すること、多く法を学ぶことです。たとえ成就できなくても、望みがなくても多く法を学ばなければなりません。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」[2]、たとえ死ぬ前でも多く法を学ぶべきです。

 自分は気づかないうちに、死にかけていた身体が回復しました。まさか回復するとは思ってなかったのです。師父は私を見捨てませんでした。せっかく回復したので、しっかりと頑張らないといけないと思っています。残された時間はわずかですが、師父は何度も何度も時間を先延ばしにして、私のような精進していない弟子を待っておられたと分かりました。そして、師父は自分のためにどれほど耐えられていたのか想像できます。

 師父はこのように説かれています。「大法弟子が互いに以前のようになり、法を得た当時のように精進してほしいと期待しています。以前、佛教に、始まりから終わりまで最初のように精進していれば、きっと円満成就するという言葉があります」[3]

 「ですから、法の勉強はやはり最も重要で、最も厳粛なことであり、あなたが行おうとするすべての根本的な保障なのです。法の勉強がついてくることができなければ、すべておしまいなのです」 [4]

 私と同じような状況にある同修が、私のことを警告として受け止めて頂ければ幸いです!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『北米での巡回説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法の中に溶け込む」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/15/429602.html)
 
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