日本の大学生、十年近く胸の内に秘めていた思い
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文/日本の大法弟子  

 【明慧日本2022年1月13日】コロナウイルスが蔓延し始め外出する機会が少なくなった約6月間、自分は本当に何を大切にすべきかをずっと考えていました。秋も深まる季節のある日、私は突然心の中で法輪大法を修煉しようという考えが起こり、そこで私はこの10年近く心に秘めていた考えと向き合うことにしました。大法を暗記した時、自分は大法の中にいて、それは非常に幸福な時間でした。

 私は東京に住む大学4年の男子学生で、大法に初めて触れたのは10年ほど前ですが、この10年という時間を振り返ると、ここで経験した全ての事は、大法を理解して修煉を始めるために必要な事だったのだろうと思われます。

 私は、化学哲学という分野を研究する学者の父と、日本の伝統的な食文化を研究する母の家で生まれました。祖母は茶道を教え、私は小さい頃から書道の稽古をしてきました。中学に進む際に受験をして、私の地方で有名な学校に入りましたが、そこは浄土宗門の学校で、佛教にまつわる行事や習慣が多くありました。さらに東京の大学に進み、専攻を選ぶ時になって、ふとしたきっかけからインド哲学と佛教学の研究室を選択しました。

 これらは表面から見た私の経歴ですが、この全てが、大法を理解するための下地になったと思います。

 十歳か十一歳の私に『轉法輪』を渡してくれたのは父でした。その頃、私は神秘的なものへの興味、超常的な力はあるのだろうか、あるのならそれを身につけたいという好奇心から、気功や呼吸法に関心を抱いていました。そんな私に父は、知り合いの編集者から貰って本棚にしまわれていた中国の気功の本をくれたのでした。

 開いてみると、その分厚い本は初めから終わりまでただ文字だけが整然と並んでいました。私は多分そういう本を読んだことはほとんどなかったと思います。私は最初のページから読んでみましたが、何が書いてあるか分からず、文の構造すら把握できませんでした。どこもすんなりとは読むことができませんでした。しかし、読んでいくにつれて、何か大きな世界への入口がそこに開いており、非常に洪大で神聖な物事がそこで開陳されていると感じるようになりました。

 さらに、読めば読むほど、膨大なエネルギー、あるいは生命、智慧が、蕩々と本の中から溢れ出てくるような感じがして、椅子の上でも布団の中でも、一心にその本を読みました。

 私は小学生の頃、教師に対して反抗心旺盛で、規則があればあえて破ろうとするような子供でした。また、友達との会話ではしょっちゅう人の悪口を言い、もっと酷い仕打ちを友人にしたことも何度もありました。ところが、『轉法輪』を読んでから、だんだんとそのような自分の言動に疑念が生じ、友人たちの使う品の無い言葉にも以前にも増して嫌悪感を覚えるようになりました。こうした変化は中学生になる頃にはさらに顕著になり、私は今までとは違う良い人になろうとする気持ちが強くなりました。環境が一変したことも後押しして、私は徐々に習慣化していた態度や言動を改めました。

 次第に周囲から穏やかで良い人だと言われるようになりました。その変化は自分自身もはっきりと実感していたもので、年々心の中が平穏になり、争い闘うことが少なくなり、周囲の人が自分に接する態度もますます好意的になっていきました。

 このように大法の本は、私の人柄を善に導き、社会生活の幸せを与えてくれましたが、この時はまだ修煉していたわけではありませんでした。この時、私が修煉を始めるには、いくつかの困難な点がありました。

 本を読んでから、インターネットで自宅から電車で一時間ほどのところに煉功があるのを見つけた私は、父にそこへ行って法輪功の動作を習って来たいと言いました。しかし、10歳そこそこの私が一人で行くことに父は反対し、代わりに「佛教聖典」という本を一緒に読んで、それを理解した上でまた考えたらどうかと言いました。私は悲しくなり、涙を流し、それきり煉功場へ行くことを断念してしまいました。しばらくした後に、煉功のビデオと別の本を入手しましたが、正しくできているのか分からないまま、時折試しにやってみるだけで、継続して行うことはずっとできないでいました。

 このような外的な障壁は、次に書くような私の内面における不足とおそらく関連していたでしょう。一つは、法の理解が極めて限られていたということです。私の中では、本で読んだことと、学校やその他の場所で習う内容とが別々になっていて、両者の関係を整理できていませんでした。普段の社会生活で物事を扱う際には常人の理論を用いるので、大法の内容はどうしても自分の中では理念だけのものになってしまいがちでした。このことは、常人社会についての諸々の知識が不足していたことにも起因していたでしょう。特に法輪大法と佛教を含む既存の宗教との違いや、神への信仰がしばしば奇異に見られる現代の日本社会で修煉者になることがどういうことなのかについて、はっきりと認識できず、自分を正しく位置づけることもできませんでした。

 また、それまで私は主に表面の振る舞いを良くすることに意を注いでいました。それも多少は私の心性に良い影響をもたらし、私は人に穏やかで優しい人だと言われるようになりましたが、それは修煉者の基準に照らして与えられた評価ではなく、今にして思えば、私がやっていたことも修煉ではなかったと思います。大法の修煉には外面的な規則は存在せず、内へ向かって修めることこそが求められます。心性が向上すれば表面の行為も自ずと違ってきますし、次元が異なれば要求も異なるでしょう。表面的な正解を求めても意味はありません。

 こうした状況がありましたが、コロナウイルスが広がってから1年弱の頃に転機がありました。私はそろそろ将来の進路を決めるべき時期に差し掛かっていました。外出の機会も少ない中で6カ月ほどずっと、自分の中で本当に大切にするべきものは何か、考えていました。秋も深まる頃のある日、私の心に、法輪大法の修煉しかない、という思いが起こってきました。そこで私は、十年近くこの胸の内に隠していた思いに、もう一度しっかり向かい合うことにしました。

 今回は私自身の判断で、下宿から最寄りの煉功場に連絡し、12月のはじめに実際に行くことにしました。そこで何カ所か動作を直してもらい、正しい動作で煉功できるようになりました。

 年末に実家に帰った際、私は家族に、法輪功をやることが自分にとって一番大事であること、煉功場へ行ったこと、また、法輪功が中国および世界でどのような状況にあるかについて話しました。両親は、大学生になり佛教学を専門に学ぶようになった私が真剣に考えて出した結論ということで、肯定してくれました。そして大法修煉の内容について尋ねたので、私は本の言葉を引用しながら説明し、五式の動作も教えてあげました。

 東京に戻ってからは、私を通じて法輪功に興味を持った友人を連れて、別の煉功場にも行ったりしました。こうして大法を修煉する人々に出会い、色々なお話を聞くうちに、次第に修煉を自分の現実の事として考えられるようになりました。こうした中で特に多くの気づきを与えてくれたのは、『轉法輪』を暗唱する習慣でした。協調人の方に勧められて、煉功場で出会った年の近い同修と一緒に法を暗唱することにしたのですが、それは非常に新鮮な体験でした。

 大法の本を得てからそれなりの時間が経ち、私は表面的に読み慣れて正直飽きてしまっていましたが、暗唱しようと思った時、言葉の一つ一つが正に初めてそれを読んだ時のように、私の智慧を開き、大きな力をもって法理を分からせてくれたように感じました。事情があって煉功場へ行けない間も、暗唱している時は大法の中に溶け込んでいると感じられ、それはとても幸せな時間です。

 こうして改めて法を学ぶ中で、私は長い間抱えていた内面の障害を解消しつつあります。すなわち、ただ外面を変えることと心性を向上させることの重大な違いを認識するとともに、大法こそが自分の生きてきた現実にも反映されている真実なのだと固く信じることを学びました。内に向かって修め、心の底から変わることが、修煉して向上するには欠かせません。

 私は今、煉功場に行き始めてちょうど1年になります。改めて1年を振り返ると、まだ常人が自分の生活を律するのと同じ考えで、表面的に修煉者らしく生活したり振舞ったりすることに執着していた時期がありました。また、心を修めるといっても、表面に現れた良くない考えを取り除くだけにとどまり、より根本的な執着心を取り除き、さらに根本的な執着心を見つけていく、というように深く探していくことができていなかったように思い、これは、一時的に修めているだけで、根本から自分を変えてはいないということです。

 今回このように1年を振り返ってお話しする機会をいただきました。生活の忙しさや文化的な壁をふくめて(修煉の困難から逃げずに)正面から向き合えば自分を最も向上させられる機縁になるはずであり、これから着実に向上して、日本人の修煉者としての責任を果たせるように精進したいと思います。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/1/8/436563.html)
 
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