法をよく学んで、はじめて人心を取り除くことができる
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年5月10日】法をよく学ぶことは、三つのことをよく行うための根本的な保証です。私たち大法弟子は皆、その重要性を知っており、問題に遭遇すれば、法に照らし合わせて内に向けて探さなければならないことも分かっています。

 自分自身の修煉過程を振り返り、「法をよく学ぶこと」とは何かを認識できるまで、私はある過程を経ました。

 初期の私の学法に関する理解は、毎日時間があれば本を読み、説法の録音を聞き、本の内容をもって自分の言動を律しながら法理の理解に努め、こうして一部の執着を見つけることができて、取り除くこともできました。しかし、完全に取り除かれるべき執着や趣味は表面的に取り除かれているだけで、時間が経つと、それがまたじわじわと芽生えてくることに気がつきました。

 例えば、以前の私は海外の映画やドラマを見るのが好きで、「英語力も伸びる」を口実にしていました。徐々に、それが取り除くべき執着だと気づいてから、たまに映画を観て安逸の状態に浸ることもありましたが、私はなるべくそこに時間をかけないようにしました。同修の交流文章を読んで、完全に直さなければいけないと痛感しつつ、時間が経つにつれてまたもや気が緩んでしまい、ずっとその繰り返しでした。

 また、私は集中して法を学ぶことができず、師父の要求に応えられていないことにも気づきました。

 その後、学法が形だけのものにならないよう、私は法を暗記し始めました。その過程で、明慧ネットに掲載されている同修たちの体験談を読んで大いに助けられました。それから、私は時間がある度に本の内容を頭に思い浮かべさせ、日常生活の中で常に法を暗記している状態に入りました。

 ある日、何気なくある映画を見始めて、しばらく見ていると退屈に感じました。他の映画に変えてみても同じ感じでした。今、かつて手間暇かけて集めてきた映画やドラマのハードディスクが手元にあり、毎日見えているのに、全く触る気が起きず、この執着はこうして取り除かれました。他の方面も似たような状況です。

 以前と今の執着を取り除く状態を比較してみると、以前は草むしりのようにいつも根っこが取り除かれておらず、常人の状態に符合すべきだを言い訳にし、自分自身を騙していました。師父が残して下さった常人のものは、私たちが常人社会で生活しつつ修煉できるためのもので、それを言い訳に安逸に陥ってはならないと思います。

 問題に遭遇すれば法に沿って判断すべきとは知りつつ、常人社会で修煉している中で、法をしっかり学んでいなければ、どうしても人心による妨害を受けがちです。強い人心があれば、執着を見分けたり、取り除いたりしようとしてもなかなかできず、他の同修に指摘されても、人心に駆られて自分の見解に固執してしまうのです。

 今の私は、執着をなくすには、法を多く学び、法をしっかりと学ぶのが一番だと気づきました。何よりも、法の暗記がもっとも良い学法の方法だと思います。明慧ネットの同修たちの体験談からも多く学ぶことができます。法をしっかりと学ぶことができていれば、問題に遭遇しても人心が少なく、法の威力が自ずと顕れてくるのです。

 思えば、明慧ネットでこのような事例を読んだことがあります。少数の同修は自分の法にそぐわない言動が他の同修に見られ、善意の指摘をされても、それを受け入れようとしませんでした。そのとき、私はとても悲しい気持ちになりました。それはきっと、法をよく学んでおらず、人心が膨張し、自らの限られた認識から抜け出せなくなっているのだろうと思いました。しかし、その僅かな認識には、とても重い人心が混じっています。そのとき、学法にもっと力を入れなければ、自分の僅かな認識にますます固執するようになり、やがて邪悟してしまうかもしれません。

 個人的な認識ではありますが、優れた才能を持っている大法弟子はなお、その才能のために自我に執着し、自分の意見に固執してはいけません。

 人心があってこそ修煉できます。しかし、人心が重ければ大法から乖離してしまうこともあります。では、どうすればいいでしょうか? 人間である以上、私たちはどうしても多くの執着による妨害を受けます。しかし、大法の貴重さを知っている私たちは日々、多く学法するように心掛け、必ず法に同化するという思いで学法し、絶えず自分の修煉状態を正していけば、修煉の道を正しく歩み、三つのことをよく行うことができると思います。

 以上は個人的な浅はかな悟りに過ぎず、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/5/1/441920.html)
 
関連文章