病業の試練を経験している修煉者に「棒喝」を与える
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年9月6日】私は明慧ネットで病業の試練を経験している修煉者に棒喝を与える記事を読みました。これは、私の以前の経験と、師父の『棒喝』に関する経文を思い出させるものです。

 棒喝の問題について、私の考えを述べたいと思います。

 私の理解では、他の修煉者の修煉を助けるために棒喝を与えることは適切だと思いますが、それぞれの状況により、棒喝は慈悲の心から与えられるべきものです。

 棒喝とは、皮肉ではなく、一撃を加えて喧嘩をすることでもありません。実際には、修煉者が他の修煉者や法に責任を持つ思いやりのものです。時には、同修に警告を与えて、彼らの主意識が強化されるようにします。そうすることで、彼らが目を覚まし、正しい道に戻るのを助けることができます。

 病業の関に陥っている修煉者は、簡単に降参してしまうことがあります。法を学び、法を聞き、正念を発し、師と大法を信じるように言うと、彼らは恨みを持ち、すでにこれらのことは知っているし信じているが、これ以上苦難に耐えられないと言います。

 あなたが彼らと一緒に法を学んだり、グループで法を学ぶことを勧めても、彼らはおそらくあなたの提案を拒否するでしょう。彼らの主意識はあまりにも弱く、業に支配されています。彼らは受動的に苦しんでおり、あなたが正念を発して彼らを助けても、うまくいかないでしょう。一緒に法を学べばうまくいくこともありますが、一旦放ってしまうと妨害に屈してしまいます。

 私はかつて、修煉を怠っていた修煉者に会ったことがあります。彼女は旧勢力に迫害されて命を落としそうになりました。師父の慈悲深い保護のもと、彼女は私の家に来ました。私たちは法を学び、功を煉り、正念を発し、経験を共有しました。

 私は彼女が怠け者で、よく寝ていることに気づきました。彼女は自分に厳しくなく、業を溜め込んでいて、修煉にさらなる苦難をもたらしました。師父のご慈悲がなければ、彼女はすでに亡くなっていたかもしれません。

 しばらく一緒に過ごした後、彼女は故郷に戻りました。帰る前に、彼女に、精進すること、修煉を子供の遊びと思わないこと、自分に厳しくするように言いました。彼女はそれを約束しました。

 次に彼女が私の家に来たとき、彼女は足がとても痛くて、坐禅の姿勢をとることができないと言いました。前回はうまくできていたので、とても驚きました。

 お話を伺っていると、彼女はまたいくつかの過ちをしたそうです。前回、彼女は我が家に来たとき、魚や鶏を食べたくて動物を殺してしまったと言いました。家に帰ると、また殺してしまっていました。その結果、彼女は坐禅のために足を組むことができなくなってしまったのです。

 私はそれを聞いて少し腹が立ち、彼女に「本当に修煉しようと思ったことはありますか」と尋ねました。彼女は「はい」と答えました。

 私は彼女に「殺生してはいけないという話をしたはずです。なぜ修煉に真剣に取り組まないのですか? 師父があなたの代わりに苦しんでくださらなければ、あなたはすでに命を落としていたかもしれません。師父が私たちのためにどれだけ苦しまれたか知っていますか? 心性を修めることができないのに、師父に苦しんでもらいたいのですか? 師父はあなたに借りがありますか? 師父を失望させていませんか? なぜ師父のことを考えないのですか?

 私は息が詰まり、怒りを感じて立ち止まりました。私は自分の怒りを抑えることができませんでした。師父が彼女のために耐えてこられた苦しみに涙しました。また、その修煉者が熱心に修煉していないことにも感情的になってしまいました。

 後になって落ち着いた私は、彼女に「今日は私の心性が良くなかった。あなたのことを心配しています。家に帰って、もし同じようなテストがあったら、同じ失敗をしないようにしてほしい、私の言葉があなたの戒めになってほしいからです」と言いました。

 同修は怒ることもなく、キレることもありませんでした。彼女は、私が自分のためにやってくれていることがわかったと言いました。

 今回、私は彼女に 『論語』を暗記させました。彼女は1段落ずつ暗記していきました。私が注意した後、彼女は大きく変わりました。彼女は法を暗記し始め、彼女の状態は改善されました。

 彼女が帰った後、私は内観してみると、自分の修煉にはまだ多くの問題があることがわかりました。

 この同修は後に私に電話をかけてきて、坐禅が1時間できたと言ってきました。私は師父に感謝し、師父が妨害を取り除き、彼女を強化されたことを知りました。同時に、師父は私に自分の修煉上の問題点を示し、修煉をもっと精進させてくださいました。

 ここぞという時に、私達は同修に棒喝を与えて、間違った方向に進ませないようにしなければいけません。そして、その機会を利用して法を学び、正念を発し、法に基づいて共に改善していくのです。相手が自分の言葉を受け入れてくれないのではないかと心配したり、相手を傷つけるのではないかと心配したりすると、修煉に対する分かち合いは効果的ではありません。

 同修との分かち合いは、私たちの正念を強化しますが、人間的な考えは強化しません。私たちが修煉者のために正しい考えをすることで、その修煉者の背後にある邪悪な要素が解消され、修煉者への迫害が緩和され、修煉者の主意識が警戒できるようになるかもしれません。たとえ修煉者が私たちの言ったことを受け入れなくても、後で考えてくれるかもしれませんし、それは必ずプラスになります。

 実は、実際に苦しんでいるのは修煉者ではなく、業であることがわかっています。苦しみのプロセスは、業を解消するためのものなのです。

 私はさらに2人の修煉者が修煉を怠り、長い間病業を経験していた時に棒喝を与えて助けました。今、彼らは強い正念を持ち、病状も改善されています。

 私たちは修煉者にテストに合格するように強制することはできませんし、病院に行くべきかどうか、薬を飲むべきかどうかを指示することもできません。師父がおっしゃったことを伝えて、自分で判断してもらうしかないのです。

 病業に苦しんでいる修煉者を助けるために、私たちは思いやりを持って最善を尽くすべきなのです。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/7/16/428218.html)
 
関連文章