心が動じる
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年9月8日】師父は『轉法輪』の中で、「心が動じる」ことについて何度も説かれています。ここでは、私自身が感じた「心が動じる」ことについてお話したいと思います。

 私は、心が揺さぶられている「心」とは、異次元の生き物である「執着」であると考えました。なぜ、何のために心を動かすのでしょうか? 普通の人は名声、利益、感情のために生きており、それが 「心」を動かすのです。つまり名声、利益、感情を求めて生きているわけですが、それは私たち修煉者が捨てなければならない心なのです。もちろん、それは一朝一夕にできることではなく、徐々に手放していくものです。

 修煉中に自分のレベルや領域が上がると、心を揺さぶるものがだんだんと小さくなり、魅力がなくなっていきます。一つ一つの誘惑にどう対処するかは、その人の修煉の状態を反映しています。心を揺さぶるものが何もないとき、人は円満成就に近づいています。

 修煉中には、言葉では言い表せないような精神的な高揚の純粋さと美しさを感じることがあります。私たちの生来の心は純粋で、何の執着もありませんでした。子供は「純粋な心を持っている」と言われることがあります。これは比喩ではなく、実像です。人は成長して人間社会に接するようになると、名声や利益、感情などの執着を持つようになります。心が清らかでなくなり、これらの執着が自分の一部になってしまいます。

 このような執着に駆られ、個人的な利益を求めて競争すると業が発生し、「偽りの自分」が支配的になります。「偽りの自分」を本当の自分として扱い、それに支配されてしまうとさらに業が発生し、「偽りの自分」をより強くしてしまいます。しかも、この「偽りの自分」は複数存在しています。

 師父は私たちにこう説かれました。「わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」[1]

 以前の私は、なぜ悪がこれほど多くの修煉者を連行し、判決を下すことができるのか理解できませんでした。その後、修煉を重ね、より深い法理を悟っていくうちに、悪は修煉の足りない部分にしか迫害できないことを悟りました。私たちが本当に法の基準に達すると、悪はもう私たちに危害を加えることができません。

 未熟な部分とは、まだ名声や利益、感情に執着している部分であり、それは「動かす」ことができます。 ある意味で私たちを本当に動かすことができるのは私たち自身です。

 私たちが熱心に自分を育てているときは、実はそのような「偽りの自分」を常に見抜き、排除しているのです。それは、私たちにとって浄化の過程でもあります。しかし、その過程は簡単ではなく、多くの回り道や繰り返しがあります。よく「人間の最大の敵は自分自身である」と言われますが、それも無理はありません。ある意味、自分を動かし影響を与えるのは自分自身なのです。

 一方、法を正す修煉では、自分の執着が旧勢力の迫害の理由になってはいけません。迫害を完全に否定し、その背後にあるすべての悪しき要因を排除する必要があります。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/3/429070.html)
 
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