日本の新しい学習者「家に帰るまで師父について行く」
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2021年9月12日】私は2020年の春に法輪大法を修煉し始めた青年弟子です。この一年余の修煉のなかで、新しい弟子である自分にたくさんの機会を与えてくださった慈悲なる師父に感謝申し上げます。

 一、隠された闘争心を掘り出し、取り除く

 自分には安逸心、顕示心、色欲心、嫉妬心、恐怖心をはじめ、捨てきれていないたくさんの執着心があります。例えば、インターネットでだらだらと時間を無駄にしてしまう状態に気づいても、自分の習慣の中からその執着心を取り除くことは、口で言うほど簡単ではありません。ネットサーフィンをする時間に制限を設けることで一応は取り除いたつもりでも、少しでも隙があれば、より無意識の部分にその心が現れます。

 例えば、真相を伝える上での参考として、大紀元や新唐人をはじめとした報道を目にしただけでも、無意識のうちに知識欲や好奇心が生じ、安逸心と一緒になって必要以上にあれこれと読み耽り、自分を緩めてしまいかねません。その時、一見大法のことをしているようですが、実は自分が修煉者であると自覚できていません。

 師父は次のように説かれました。「多くの学習者は常人の中で修煉しているため、いろいろな心が捨てられず、そうした多くの心がすでに当然なものになっていて、本人も気づきません」 [1]

 自分が取り除くべき良くないもの、汚い物は、往々にして「当然」という思いに阻まれ、自分自身で気づくことができません。何かにつけて行為や出来事の中に入り込んでしまい、一歩引き下がってそれを見ることができません。ですから、これらの執着心を見分ける唯一の方法は法を基準とすることであり、そして教訓をくみ取ることです。そのためにはなにより、心を静めて法を多く勉強することです。

 最近、法をしっかり勉強して十分な正念を保てたことで、思わぬ一部の法理を悟りました。

 ある時、静功を煉って入定すると、何の考えも浮かばないとても良い状態に入ることができました。すると突然、どこからともなく「寂しい、誰か私を認めてくれ。敗れたくない」という強い念が湧き出てきて、その状態を破ってしまいました。

 なぜそんな汚い念が何の脈絡もなく出てくるのか、全く不思議でした。その一瞬、まるで足を組んで座っているだけの常人になってしまったかのようでした。静功を終えた後も、自分が別人になってしまったかのような感じがして、不思議でした。ただ心は落ち着いていました。

 内に向かって探すと、様々なことに気づきました。私はそれまで自分には闘争心の問題はなく、良く修めていると思っていました。昔から、実力主義的な風潮が苦手で、人と競争すること自体愚かしく思い、そういう環境を避けてきたからです。私はそれと反対に「みんなが違っていていい」「十人十色」「個性が尊重されるべき」といった考えを好んできましたし、それが他者を思いやることであり、慈悲であると思い込んできました。

 しかし、そういう考えを特別に好むこと自体、競争に巻き込まれず事無きを得るため、自分を守るための、後天的に形成された観念であり、面子を気にする強烈な心や承認欲求と一緒になったものです。「勝敗や周りからの評価に関係なく、あるがままの自分を人に認めてほしい」と思う心は、私を優先し、他人を後にする考えであり、まさに闘争心ではないでしょうか。これのどこが慈悲なのでしょうか。つまり「私には闘争心がない」という観念の背後に、強い闘争心が隠れていたのです。

 師父は次のように説かれました。「常人の中で迷う人間が、名誉、利益、色欲、意地などのために生じた意識は、時間が経つにつれて、しだいにある種の強い思想業力となってしまいます。なぜならば他の空間では、すべてのものに生命があり、業も例外ではありません。人間が正法を修煉するには、業を消去しなければなりません。業を消去するとは業を滅し、転化させることです」 [1]

 この「私には闘争心がない」という観念の背後に強い闘争心が隠れていた、ということをはっきり認識した時、自分の愚かさに思わず吹き出してしまうと同時に、取り除かれた汚い物の分だけ水の上に浮き上がったような軽やかな感覚や、その時点で自分が達した次元における無為の状態を悟りました。

 また、この経験を通して「すべてのものに生命があり、業も例外ではありません」 [1]という法理に対するより深い体得がありました。入定の中で自分の思惟に現れた「寂しい、誰か私を認めてくれ。敗れたくない」という強烈な一念は、私自身の取り除かれていなかった闘争心の暴露であると同時に、定の中で消滅されつつあったその生命が私の大脳に反映させた最後の一念だったのだと言えるのではないでしょうか。その考えはそもそも私のものではないのです。

 私はまだ意志の練磨中であり、修煉状態には波があります。しかし、どんな状態においても修煉において出会ういかなることも、それが良いことであれ悪いことであれ、自分を喜ばすネットの記事であれ、自分を不快にするが向き合わなくてはならない常人の中での競争事であれ、その中に入りこまず、それを理解することが、修煉であり、これからもそれを忘れないように精進しなくてはなりません。

 二、ウイルスの真相を伝えて関を突破する

 私は煉功中、特に第二式を煉っている時に、よくある状態に入静を妨害され、なかなか突破することができませんでした。それは、意念の中で大法について説明してしまう状態です。

 私は昨年、ネット上で大法に出会い修煉に入ってきましたが、周囲の家族や友人の中には大法を知る者がいなかったので、大法修煉について彼らに説明する必要がありました。はじめは、自分の修煉環境を確保するためという受動的な動機からでしたが、それは次第に、真相を待ち望んでいる衆生を救い済度するためという純正な動機に変わっていきました。

 その過程で、異なる心性の試練がありました。時に、全く煉功者らしくもなく、前へ前へと押し付けるように説明し、議論になってしまい、逆の効果をもたらしてしまうこともありました。それはきまって、自分の正念が足りず智慧が十分に働いていないからでした。

 そうした状態が続く内に、煉功の際にまた「ああ説明しよう、こう説明しよう」と心が静まらなくなってしまっていたのです。この関をなかなか突破できずにいました。

 師父は次のように説かれています。「大法の尊厳は常人の手段で守るものではなく、私たち大法弟子一人一人の本当の慈悲と善の表れによってもたらされることであり、作られるものではありません。人間の行為、人間の手段で作られることではありません。それは慈悲から来ており、衆生を救い済度することと修煉の中から現れてくることです。皆さん全体の修煉が良くできていれば、世の人々は大法が良いと言い、大法を尊敬するようになります」 [2]

 「大法も世の人々の前でこのようです。良くないと言われたら、常人の方法で相手と議論したり、相手の口を封じたりなどのようなことをすると、トラブルを激化させてしまいます。私たちは自分自身の現れを良くし、慈悲をもって全てに対処していれば、相手と言い争い、議論する必要はありません。誰にも分かっている一面があり、人間の表面も感動を受けるのです。それによって相手は自然にあなたが良いと言ってくれます」 [2]

 一人の修煉者としては、自分の修煉状態によって周りの状況が変わるということを覚えていなくてはいけないと理解しました。しかし、実践できなければ悟りではありません。自分をしっかり修めることができて、初めて行うべきことを良く行うことができます。

 数週間前、親にワクチン接種について相談されたことがありました。そのとき、私はそれまでの反省を踏まえ不要な説明を避けるようにし「修煉者なのでワクチンは不要です」とだけ平然と伝えたことがありました。親からは「はいはい、わかりました」と少し呆れたような反応が返ってきました。

 その会話の後、しばらく心が落ち着きませんでした。自分がまた別の極端に向かってしまったと思いました。内側をよく見ると、自分のその発言の背後には、まだウイルスを常人のように恐れる心がありましたし、その恐怖心を覆い隠す虚栄心がありました。厳しく言えば、まるで師父の説かれたように「李先生が守ってくれているから、車なんか怖くない!」 [1]の状態のようでした。そこにあるのは私への強い執着であり、大法弟子としての本当の慈悲と善などまるでありませんでした。

 最近、再び「あなたもワクチンを打ちなさい」と親から頻りに勧められました。その口調も以前より切迫感を増しています。しかし、今度は心が動じることもなく、この前のような態度で相手の口を封じるようなこともしませんでした。

 落ち着いて親の話を聞いてみると、ウイルスそのものへの恐れや、リスクを伴う暫定的な対処でしかないワクチン医療に対する迷いが、相手をこのような状態にしているのだとわかりました。ですから「修煉者なのでワクチンは不要です」の一言で済ませてしまっては、不安を感じている相手を突き放し傷つけることにもなりかねません。私がすべきことは、ウイルスについてのきちんとした説明です。

 修煉者として、中共ウイルスの本質が中国共産党(中共)邪党メンバーとその支持者を淘汰するためのものであるという基点に立つべきです。そして、ウイルスから身を守りたい世人にとって、本当に必要なのはワクチン接種ではなく、善悪の見極め、邪党を遠ざけることです。私はここで、親に対して、この道理をもって、相手のウイルスに対する恐怖心や迷いを溶かしてあげるべきです。

 そこで、高い話を避け、相手の受け入れ能力を冷静に踏まえた上で、次のように伝えてみました。「ワクチン接種のこともそうだけど、そもそもなぜ、中国でこんな疫病が出て来たんだろうね。Sarsもそうだったよね。少なくとも、流行がここまで大きくなったのは、当初6週間近く情報を隠蔽していた中共当局にその責任があるはずだ。それと、不思議なことに、昨年最初に流行が広まったのは一帯一路の沿線国や新中共の国だった。これは、天災というか人災というか。ただ、中国には昔から「天人合一」という言葉がある。今の中国では建国から70年来、どういうことが行われて来たか知っているよね」と話を広げていきました。親は興味深く話を聞いてくれました。

 最近、親は残留孤児をテーマにした90年代のある日本のテレビドラマの再放送を、毎週楽しみにしています。ドラマの中で、主人公は様々な闘争に巻き込まれていきます。なので、ちょうどそういった邪党の歴史について親も興味があったようです。

 私はその歴史の真相を説明して、法輪功への迫害について触れ、なぜ、法輪功学習者は他の闘争運動などとは違いすぐ滅びなかったどころか世界中に広まっているのか、またこんな卑劣な迫害を行っている中共の拡大をなぜ世界中が許してきたのかなどに話を広げました。

 最後にこのウイルスが中共邪党に狙いを定めていることと「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」という「心からの九文字」の真言について伝えました。すると親に「そんなの迷信じゃないの?」とつっこまれました。しかしそこには拒絶の態度はありませんでした。私は笑って「西遊記の国だからね。神秘の国なんだよ、中国は」と伝えました。

 ちょうど一年ほど前、70年代にヒットした日本のテレビドラマ版の西遊記の再放送を親が熱心に見ていました。親は「あら、じゃあ覚えておくわ」と笑って受け取ってくれました。そして最後に親はこう言いました。「それにしても、あなたの言うことを聞いていると、まるで法輪功がこの世界の中心みたいじゃないの」

 このやりとりを振り返ってみると、私は特に相手を説得しようとすることもなく、ただ自分の内側の信念を揺るがすことなく、ただ相手と楽しく会話をしただけでした。これからも、自分をしっかりと修め、自分の表れを善くすることで、相手に芽生えつつある善念は加持されるのだと信じています。

 このこと以降、他の場面でも、このようなリラックスした状態で真相を伝えることが比較的容易になりました。気がつくと、煉功の際に入静を妨げていたあの「大法とは何かを説明してしまう状態」を突破できていました。真相を伝える上で必要なのは説明のテクニックではなく、心性の修煉であるという理を悟りました。

 最近では、気分が落ち着かない時も、少し目を閉じて静かにすれば自分の内側に光のようなものを感じることができ、師父が本源から自分の生命を作り直してくださったことを実感します。師父は私を済度してくださっただけでなく、これほど神聖な使命まで私に与えられました。まだまだ修めることが足りない未熟な弟子ではありますが、家に帰るまで師父について精進していきます。

 以上は個人の悟りに基づいたものであり、不適切なところがあれば、ご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/9/5/430454.html)
 
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