大法弟子は師が法を正すことを手伝う過程で鍛えられる
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年10月11日】私は以前、修煉について誤解していました。師父の法によって大法弟子は遠い昔に選ばれており、人類の歴史の中で大法弟子としての今日の役割を準備するために、強大な威徳を築いてきたことを知りました。しかし、1999年7月に迫害が始まり、大法弟子たちがこの20年間の迫害を乗り越えることができたことで、私の理解はさらに確かなものになったと感じていたのです。そのため自分の成果にかかわらず、修煉の道を歩む限り私は大法弟子であることに何の疑問も生じることはありませんでした。

 最近、明慧に掲載された「大法弟子と呼べる人についての考察」という記事を読み、衝撃を受けました。その時初めて、この法を正す時期の大法弟子という称号を実現できるのは、単なる師父の計らいによるものだけではなく、師父が法を正すことを手伝う過程で、堅実に大法を修めている人であることに気がついたのです。按排はあくまでも前提であり、前段階に過ぎません。 真の大法弟子になれるかどうかは、あなた自身の実際の大法修煉にかかっているのです。

 これは大学教育と似ています。高校での努力と選抜入学を経て、ある大学に入学したとします。その時、彼は本当の大学生と言えるでしょうか? 彼は「大学生」という肩書きを持っていますが、彼が大学生の基準に達しているかどうかは、彼が大学のカリキュラムを修了し、満足のいく成績で、大学の学位を取得できるかどうかにかかっているのだと思うのです。仮に、大学で努力をせずに、ただ遊んでいたとします。成績は悪くなり落第し、キャンパスから追放される可能性もあるでしょう。つまり、あれこれ理由をつけて最終的に卒業証書を得ることができなければ、その人は大学卒業者とは呼べないのです。

 私たちの修煉は、大学に通い、学位を取得することに似ています。私たち大法弟子は、旧勢力から課せられた悪質なテストに合格し、法を正す時期の大法弟子の称号を得るのです。莫大な犠牲と苦難の上で、慈悲深い師父が、必要なものをすべてを用意してくださっているのです。その道をしっかりと歩き、その使命を果たすことができるかどうかは不確かです。そのためには、純粋に大法を修め、衆生を救い、法を実証しながら誓いを果たす必要があります。艱難辛苦の中で自分を見つめ直し、法に基づいて絶えず自分を磨き、人々を救うために時間を有効に使うことができなければ、どうして「大法弟子」と呼ばれることができるでしょうか。

 最近、『セルフメディアについて◎師父評注』を読んで、とても感動しました。中国本土の修煉者である私たちは、海外の修煉者が長年にわたってニュースメディアを立ち上げ、維持することがどれほど大変なことか知らないかもしれませんが、海外の修煉者の努力と献身がなければ、これらのメディアチャンネルは存在しなかったし、ここまで来ることもできなかったでしょう。そして、これらの海外メディアは、人を救うために大きな役割を果たしてきました。このことは、すべての修煉者、特に中国本土の修煉者は感謝すべきことです。これらのメディアは、中国の人々を含む衆生を救ってきたからです。

 しかし、これらのメディアチャンネルを運営している一部の修煉者は、いくつかの問題を抱えていることが判明しました。私は、これらのメディアチャンネルをフォローしている修煉者の間の抜け道が、その問題を悪化させているのではないかと思ったのです。修煉者の中には、これらのメディアにとても執着を持っている人がいます。特定のブロガーの、忠実なファンになってしまうこともあります。また知らず知らずのうちに、その番組の司会者の言葉を、自分の修煉や衆生救済のために利用している人もいます。そうすることで気づかないうちに、その言葉を「法」のように扱っているのです。

 真の修煉者は、法の原則に基づいて常に法を理解することができます。法からの真の悟りで、修煉のすばらしさと神聖さ、そして師父の大いなる慈悲を感じることができるのです。師父と大法からの明確な指導があるので、このような修煉者は、日常の世界の物事にあまり気にすることはないので、日常社会の物事に邪魔されることはないのです。

 一方、純粋に修煉していない修煉者はそのようにはならないのです。人間の観念に操られ、修煉者同士で話題にしているのです。大法弟子は、常人のセルフメディアの動画は観るべきではないのですが、大法弟子が運営しているセルフメディアを追いかけることが、自分の人心を正当化する理由になっているのです。修煉者が運営するメディアのチャンネルをフォローするために、彼らは様々な言い訳をして、人心への執着を出てしまうのです。

 実際ネットやセルフメディアは、海外の一部の修煉者が事実を明らかにして、人々を救うためのプラットフォームなのですが、修煉者のためのものでなくなっています。

 修煉者が救われるのは、師父と法だけです。言い換えれば、すべての修煉者は時間が許す限り明慧ネットを見るべきです。明慧は私たちの家のようなもので、そこには法を正す進展があるからです。毎日法を学び、煉功し、正念を発することに加えて、師父は私たちが必要とするすべてのもの、つまり法器をその家に用意してくださっています。毎日、法を学び、家(明慧)に戻って自分を充実させ、新しい法器を持って再び出かけ、師父が人々を救うことを助けることができるのです。

 現在の状況からすると、中国のほとんどの修煉者は、明慧ネットを手に入れることができるはずです。問題は、明慧ネットを開き見ることの重要性を理解し、実際にそれを定期的に行うかどうかです。

 これまで述べてきた問題は、すべて人心に関わるものです。また、法を正す時期の修煉の機会を大切にしなかったために起こったことでもあります。私は師父の講義を受けたことはありません。しかし、ある夢の中で、師父が吉林省長春市の第五中学校で、第一回目の講義をされている場面を見たことがあります。

 大きな教室には人が溢れ、演壇には誰もいませんでした。そこにいらっしゃった師父は、背が高く、慈愛に満ちていました。そして、一歩一歩、教壇に向かって歩いてこられました。その一歩一歩が、宇宙の歴史を変えるような、とてもしっかりとした足どりでした。それは堅固な一歩であることがわかりました。その瞬間、宇宙全体が揺らいでいるのを感じ、宇宙全体の存在がこの歴史的瞬間を見守っているのを感じました...。

 夢から覚めたとき、これは師父からの励ましだと思いました。目が覚めてから、師父が弟子たちを励ましながら、同時に師父が法を正すことがどれだけ大変だったかを、自分の現段階のレベルで、感じさせてくださっているのだとわかりました。そして私たち大法弟子は、大法を大切にしなければならないと感じました。しかし、私はよく失敗しました。修煉者として、自分を厳しく律することができず、人間的な観念をまだたくさん持っていたからです。問題は、大法弟子の基準を満たしていないのに、どうやって真の大法弟子と言えるのかということです。

 数日前、私と他の現地の修煉者たちと一緒に、師父がオーストラリアの修煉者たちに向けて行われた講義のビデオを見ました。師父は何度も何度も、忍耐と思いやりをもって、私たちに法の原則を説明してくださいました。師父の教えはとても明確です。しかし、それを本当に理解できる修煉者がどれだけいるでしょうか。どれだけの修煉者が正念をしっかりと持ち、執着をなくすことができるでしょうか。ビデオを見ながら、私たちを救うことはとても難しいことだと感じました。実際、師父がどんなに忍耐強く、思いやりをもたれたとしても、私たちの中には、自分を変えて執着を手放そうとしない人がいるのです。

 なぜ修煉するのが難しいのでしょうか?  その原因のひとつは、私たちが師父を信じていないことにあるのです。師父が按排してくださったものを大切にせず、精進もせずに「大法弟子」を名乗るのであれば、私たちの考え方を見直すべきでしょう。私たちは本当に大法弟子になりたいのでしょうか? 私たちは、今日のために歴史の中で多くの苦しみを味わい、師父は私たちを大学の教室に送り込むために耐えてくださいました。私たちは自分の使命を果たすために全力で努力し、心を砕くべきではないでしょうか。

 以上は私の個人的な認識ですが、同修と共有します、適当でない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」のためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/9/7/430397.html)
 
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