責任と義務(二)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年11月5日】(前文に続く)

 三、睡魔の妨害を打破し、修煉の苦境から脱出する

 私の身体に現れた病業の仮相は、他の病気のように耐えられないほどの痛みはありません。しかし、まるで魔法をかけられたような足の脱力感と辛さは、時間が経つにつれ、絶望と苦痛をもたらし、修煉者の正念を著しく損いました。

 病業の仮相が現れてから、いつも頭が重く感じ、いくら寝ても足りず、夜12時の発正念ができず、煉功もクリアできなくなり、ずっと努力しましたが、改善できませんでした。ある日、思い切って寝てみようと思いました。その結果、前日の夜8時から翌日の朝7時まで寝ても、ますます眠くなりました。 そのため、私は眠気の問題について真剣に考えるようになりました。この睡眠状態は、私の修煉に深刻な影響を与え、多くの貴重な時間が奪われています。この状態を徹底的に変えなければ、もはや修煉できません。

 師父はこのように説かれています。「法を学ぶ時に寝てしまう、本を読む時に寝てしまう、煉功する時も寝てしまう、この最も初期のものも乗り越えることができません。それは意志なのです! ご存知のように、修煉の中で人間を構成しているあらゆる要素も、あなたが人間から離れることを阻んでいるだけでなく、人間のあらゆる環境を構成しているものまで、あなたが離れていかないように阻んでいます。どんなものをも突破しなければならず、どんな魔難をも乗り越えていかなければなりません。その最大の現れは、それらのものがあなたに苦痛を与えることです。しかし、苦痛に異なる形式があり、眠いのもその一種です。修煉できなくなり、精進できなくなった人は、それが苦だとは知らないのです。あなたが法を得ることができず、それらのものはあなたに法を学ばせないのに、それが魔難とは感じていません。心が法に置かれておらず、修めたくなければ、話は別です。どうしてそれを抑えないのでしょうか? 意志を強めましょう。人間は自分が寝てしまわないように自制することで、成佛することができれば、私に言わせれば、それはあまりに易しすぎるのです。この小さな関も乗り越えることができなければ、どのように修めるのでしょうか?」[3]

 法に照らしてみれば、私は本当に穴があれば入りたいほど恥ずかしくなり、初期段階のものも修煉できないのに、自分の修煉に対して無責任すぎました。 「この状態を打破しなければならない、必ず乗り越えなければならない、もうこれ以上寝てはいけない」と決意しました。私は長時間発正念をしてみましたが、何度やっても何も変わりませんでした。コーヒーや濃いお茶を飲むような常人の方法を試しましたが、最初の数回は効き目があり、何回か飲むと心臓の調子がとても悪くなりました。修煉には近道はなく、問題を抱えている修煉者は修煉でしか解決できないことを実感しました。

 私は夜9時前から学法するようにし、9時過ぎに眠くなると、煉功を始めます。五式の功法を一遍に行い、いくら眠くても12時の正念を発してから寝ます。この過程の中で、やり遂げられるのは容易ではなく、眠気と両足、足のだるさという問題にも直面しなければなりません。睡魔に襲われた時あるいは足に力がなく我慢できない時は、「絶対に放任してはいけない、そうすると自滅してしまうので、どんなに辛くても我慢しなければならない」と自分に言い聞かせました。

 師父は私の精進したい心を見て下さり、私の正念を加持して下さいました。しばらく辛抱していると、だんだんと眠くなくなり、最後にはこの関を突破しました。今では、自分は睡眠のスイッチをコントロールできるようになりました。夜12時の発正念はほとんどできるようになり、朝起きて再び静功をします。今は、二度寝をしたいという気持ちはありません。

 2年あまりの間、三つのことを行っているうちに、知らず知らずの内に身体が少しずつ回復し、特に睡眠の関を乗り越えてからは回復が速くなりました。今でも時々、足がだるい仮相が現れますが、それも気にしなくなりました。残っている違和感は、自分の悟性を高め、業力を転化させるために出て来た黒い気に過ぎないと悟りました。

 四、義務

 近年、私たちの市では、何人かの協調人が拘禁されたり、ひどい病業に悩まされたりしていますが、彼女たちは皆比較的精進していて、熱心で責任感がある修煉者です。彼女たちが迫害されたのは、あまりにも多くの同修に依頼されたため、邪悪な迫害の対象になってしまいました。もちろん彼女たちの個人修煉ができていない部分もあります。

 コンピューターのインストールができる同修が拘禁されたので、私はインストールをする仕事を引き受けました。以前、5、6人の同修と一緒にインストールを勉強した時、私は続けられませんでした。私は小学校しか通っていないので、英語のアルファベットが全く書けませんでした。インストールをする同修が迫害された後、私は同市や田舎の多くの同修のためにインストールをしました。駅でバスを待っているとき、10分以上立つと耐えられないので、ビニール袋や紙を敷いて道端に座っていました。

 その後、明慧報道の同修が連行されたので、私は明慧の報道員を引き継ぎました。1人ではできないことも多くあるので、何度か同修に協力を打診したのですが、断られてしまいました。以来、協力をお願いするのが怖くなり、できる限り自分1人でしました。

 あまりにも多くのことを引き受けたので、静かに学法することができず、いつも仕事に追われることが多かったのです。そんな時、遠く離れた同修に出会い、「自分ですべてを抱え込んでしまうと、自分も他の人も害してしまうから、手放して下さい。このままでは危険です」と言われました。

 昨年、資料を作っていた同修が突然亡くなりました。私はその全過程を目にしました。これは私にとって大きな精神的ショックであり、修煉の厳粛さを実感しました。 同修が残した大量の荷物と、大小2台のプリンターがあり、急いで置き場所を探す必要があります。多くの親族が最後のお別れをするために彼女の家に行くので、時間がありません。その時、ある同修が荷物を引き取り、自分の家に運びました。私も家まで何度も運びました。しかし、資料の作成を続けなければなりませんので、いろいろ考えなければなりません。頭が痛い時、新しい学習者が資料作成の仕事を引き継いでくれて、資料拠点は正常に運営できました。本当に同修に感謝しています。

 時には、「すべての面倒を見られないなら、自分は修煉できていないので、自分の修煉に力を入れ、三つのことを行えばいいのだ」と思ったこともあります。しかし、夢の中で師父が私を悟らせて下さいました。私は学生の列の前に立ち、クラスのリーダーのように彼らを並ばせて、彼らにピーナッツを配っていました。 夢の中から私には使命があり、師父は自分だけではなく、同修と共に向上することを望んでおられることに気づきました。

 私は長年来、どんなに危険で困難なことであっても、やるべきことであれば断ったことはありません。修煉者としてやりやすいことや、好きなことを選ぶべきではないと知っています。それよりも、大法とすべての衆生の必要性を考えるべきです。心身ともに疲れ果て、孤独感や無力感に襲われたとき、師父が近くにおられること、自分が大法弟子であることを思い出すと、正念の力が強くなります。

 ある日、夢の中で慈悲深い師父がすぐそばにおられ、私は背の高い師父のそばに子供のように座っていました。師父はいつも私たちを見守って下さっています。私たちの一歩一歩の向上には、師父の数え切れない苦労が入っていると分かります。

 私のすべては師父から与えられたものであり、自分が行った些細なことは、私がすべきことであり、法が要求されるものとはまだまだかけ離れています。今一番感じているのは、時間がどんどん速くなっていて、少しでも緩むと時間が過ぎてしまうということです。同修はお互いに励まし合い、時間を大切にし、心性の修煉にしっかりと取り組み、より多くの人を救い、師父の慈悲なる苦心の済度に応えられることを願っています。

 (完)

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一八年ワシントンD.C.での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『長春輔導員法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/10/28/432651.html)
 
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