若い世代を正しい道に導く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年12月5日】しばらくの間、この記事をずっと書きたいと思っていたのですが、いざ書こうとするたびに書けなくなったり、他の事に振り回されたりして、これはある種の妨害だと分かっています。絶対今日中に仕上げて、悟った少しばかりの体験を書き出そうと自分に言い聞かせました。

 修煉はすでに最終過程になり、多くの同修は時間の緊迫性を認識しており、法を正す進展についていくため努力しています。しかし、非常に精進している同修の中には、自分の無意識の執着に囚われ、伝統的な概念で指導するのではなく、現代の概念意識で身内や子供たちを説き伏せている人も見受けられます。そのことを指摘すると、彼女はまだそれを認識できず、師父は私たちに良い人間になれと言ったではないかと言われました。師父の法理をあまり理解せず、極端な行動に出ているように感じました。

 修煉の道で回り道をすることがないように、より良く向上、昇華できるようになることを目指し、若い世代をどのように指導していくかについて、同修と話し合っていきたいと思います。

 私たち中国人の理念の中には、その伝統的なものがどれだけ残っているのでしょうか。とても少ないのです。特に若い人はなおさらです。あったとしても、悪党に変異させられた後の、いわゆる「伝統文化」です。人々の心の中にある多くは、変異した現代文化です。

 私たち修煉者の、正しい道は伝統に戻ることだと知っています。邪悪な共産党は中国で何年にもわたって大混乱を引き起こし、五千年の伝統文化は彼らによって壊され、真の伝統的なものは私たちのところから去ってしまいました。したがって、大法弟子でさえ、現実に直面してどうすればよいか、伝統的な概念に従って子供を教育する方法が分からないのです。

 いくつかの例を挙げます。

 祝日になると、子供たちを実家に呼んで、ご馳走するある年配の同修がいます。台所で、彼女はひとりで料理をするのに忙しく、子供たちは手伝おうとしましたが彼女は断りました。1日のほとんどをひとりで忙しくしていましたが、修煉者は常に他人のことを考え、良い人でなければならないと思っていたそうです。この日は、修煉者がやるべき三つのことの時間が、彼女によって短縮されました。

 ある同修は病業の関を乗り越える時、非常に正念が強く、全く病業を認めないのです。子供たちはお母さんのために家事を手伝おうとしましたが、彼女はそれを断り、全部自分でやろうとして、家族みんなはそのやり方が理解できないのです。実際、妨害を認めなければ、大法の事やその他のことを行うことができ、家族と競って家事をする必要はありません。

 同修の中には、結婚した息子や娘の面倒を見るために、朝から晩まで働き、すべてのことを自分でこなし、非常に忙しくする人もいれば、どうすることもできない人もいます。

 また一部の同修は、ある事柄で子どもの失礼な言いがかりに直面したとき、その失礼な行為を正面から止めず、子どもの前で「自分が悪い」と無原則に謝ったりしていました。

 上記の例にはすべて共通の特徴があります。つまり、これらの同修は、年配者を敬い尊重するという若い世代の義務を無視し、伝統文化を無視し、伝統理念を失い、今日社会のほとんどの高齢者と同様に、現代の変異したイデオロギーに乗っかかってしまい、自分たちは全く意識していないのです。

 伝統的な文化は、年配者を尊重し、幼い子供を愛することです。あなたは年配者、彼は若者、彼らはあなたを尊重すべきではないでしょうか? 私たち修煉者は、物事がうまくいかないときは動ぜず、内に向かい非を探すのは当然ですが、子どもの間違った言動に対して、教育する義務があるのではないでしょうか。

 病業を乗り越える修煉者、子供たちが何かしてあげたいと思うのは、人間の正常な行動です。あなたは彼らの義務を奪っていないでしょうか? もちろん、我々の修煉はこれを求めるのではなく、常人の中で修煉しているため、できるだけ常人に合わせます。子供たちに、正常な普通の人がどうすべきか、何をすべきか、自らの責任を知り、両親を敬う方法を知り、他人を気遣い、感謝することは人間の美徳であることを知る義務があるので、私たちは普段から、若い世代が正しい思想と概念を持ち、伝統の道を歩むよう導くことに注意を払う必要があります。

 中国では今、ほとんどのお年寄りが、子どもが安心して働けるようにと、家事全般を一生懸命やっています。現代人は仕事で忙しく、その分ストレスも大きく、あまりに忙しいと、見て見ぬふりをするわけにもいかず、しかし手伝うのもほどほどにということになります。若い世代はやるべきことをやらず、取るべき責任を取らず、それも罪だと思いませんか。 もし彼らが携帯電話やインターネットをする時間を減らすことができれば、ある程度、自らで何かをすることができるのではないでしょうか。世の中のモラルが低くになっている今、若者はすでに非常に利己的になっており、年配の大法弟子として、このような無条件の犠牲は時間の経過とともに、彼らは感謝の気持ちを失い、やがて無情で不義理な人になります。私たちには責任がないのでしょうか。では、自分たちの「底抜けに良い人」は本当に良い人なのでしょうか。社会の雰囲気が日に日に悪化している今日、我々もそれを助長しているではないでしょうか。子供たちを伝統的な道に戻すべきではないでしょうか。

 そうです、私たちは修煉者であり、人間のことはすでにこのようになっており、正す時間もなく、それは法がこの世を正した後のことになります。しかし、私たちには彼らを導き、何が「親孝行」で何が「礼儀」であるか、何が正しくて何が正しくないか、そして何を言うべきか、何を言ってはならないのか、またはすべき事と、してはいけないことを教える責任と義務があります。やるかやらないか、どれだけできるかは別にして、そこに執着しなければいいです。

 個人的な見解のため、法に則っていないところがあれば、ご指摘をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/11/23/451848.html)
 
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