日本の大法弟子 [観念を突破し、苦を以て楽とする]
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2021年11月30日】真相伝えの電話プロジェクトに参加して、早くも1年が経ちました。その間、常人の観念を突破しつつあること、何かに遭う時に内に向けて探せるようになったこと、苦しいことを楽しいことのように思えたことなど、多くの感動を得ました。また、真相を伝える中で衆生の命の大切さと尊さも感じました。

 観念を突破する

 電話プロジェクトに参加して、最も感じた困難は、時間が足りないことです。私は会社員なので、休日を除いて毎日8時間出勤し、昼の休憩時間と往復の通勤時間を入れて、毎日仕事に使う時間は10時間です。重要な用事がある時を除いて、平日は家に帰ってから2~3時間の真相伝えの電話をかけるようにして、休日はできるだけ多く電話をかけるようにしています。これで、ほとんどプライベートの時間がなくなっています。

 今まで、朝に煉功してから出勤し、仕事が終わって家に帰ってから、まずお風呂に入り、洗濯と家事をして、夕食を食べます。全部済ませてから、現地の同修とRTCで学法して、それから楽器の練習をします。練習が終わったら北京時間の深夜0時(日本時間では深夜1時)になります。毎日の睡眠時間は4~6時間です。電話をかけたいなら、時間を絞り出さなければならず、また中国時間の19時~22時の間、電話の受けやすい時間帯に電話をかけるように自分の生活のリズムを調整する必要があります。

 常人の観念に基づいて時間の計算や調整をした後、私はRTCで毎日『轉法輪』の1講を勉強し、経文は時間を割いて自分で読みます。1カ月経って、経文は数ページしか読めず、多くの場合、本をめくるとすぐ睡魔に襲われ、現状を突破できなくてとても焦りました。

 ある日、電話プロジェクトの仲間たちと一緒に学法している夢を見ました。そこで、私は常人の観念を捨てて、深夜0時の発正念をした後、プロジェクトの仲間たちの学法に参加しました。学法が終わったらもう早朝の3時半になり、3時間半寝て、朝の7時に出勤しました。その日の煉功は仕事を終えて家に帰ってからしました。意外なことに、仕事中にとても元気で、全然眠くありません。時々、「昨日はあまり寝ていなかったので、昼間に眠くならないのか」という常人の観念が浮かんだりしますが、すぐそれを否定しました。

 「多くの大法弟子は確かに疲労を感じていますが、法の勉強と修煉をおろそかにしており、たくさんの仕事をしましたが、自らを修めていません。このため、疲労を感じ、疲れや困難を感じるのです。実は私はずっと言っていますが、修煉は大法の仕事をすることに影響しないのです。これは間違いのないことです。なぜならば、煉功は疲労を解消し、身体を速やかに回復させる最も良い方法だからです」[1]

 夕方に煉功するようにしたら、夕食を作る時間がなくなるという問題が出てきました。それで、休みの時、食材を多めに買って作り、冷蔵保存します。ご飯も同じように、1食分ずつ分けて冷蔵します。そうすれば毎日帰って来たら、加熱してすぐ食べられるようになり、多くの時間を節約できました。その中で、食べ物の美味しさに対する執着、および作り置きは美味しくない、数日置いたら栄養成分が低下するという今まで頑なに思いこんでいた常人の観念を除去しました。

 こうして半年過ぎました。時には、皆と一緒に学法する時に十分に理解できなかった部分があるので、学法が終わってからその部分を読み返すことがあります。そうすると、睡眠時間がもっと少なくなります。その時、寝るか、煉功するかと迷ったことがあります。多くの場合、私は寝ることを選びましたが、ある日から、煉功を決行しました。もっと苦労して、キャパシティーを拡大したいと思ったからです。睡眠時間はさらに少なくなりましたが、日中は仕事をしても、元気で全然眠くありません。

 「先ほども話していましたが、修煉者の理は常人の理とは相反するものです。人間は気持ちよくいられることが良いことだと思っているのに対し、大法弟子はこれが向上にとって良くはなく、気持ちよくないことが向上にとって良いことだと思っています。(拍手) この根本的な観念を変えたのでしょうか?」[2]

 「大法弟子はなぜ修煉しているのでしょうか? なぜ関を乗り越えなければならないのでしょうか? なぜ正念を強く持つ必要があるのでしょうか? なぜ苦しみを味わう必要があるのでしょうか? このようにしてはじめて、修煉だと言えるからです。実は修煉はほかでもなく、苦を嘗めるためにきたのであって、この世での保護を得るためにやってきたのではありません。大法を学ぶと守られますが、大法を修煉するとき苦も嘗めなければなりません」[2]

 常人の観念を突破し執着を除去するこの1年間、苦を嘗めると同時に、一種とても単純な楽しさ、常人の殻を剥く感じも体験しました。

 内に向けて探せば、周りの環境も次第に変わる

 修煉においてもっとキャパシティーを拡大しようと思っていたところにチャンスがやって来ました。今年6月末、夜勤の同僚が突然病気で入院して、彼の仕事を誰かが代行しなければならず、時間は早朝3時から、8時間働いて正午に退勤します。上司は私に相談したので、私は承諾しました。

 毎日、深夜0時から学法して、学法が終わってからしばらくすると家を出なければなりません。代行の仕事は、誰かとペアになって行わなければならず、最初の数日は上司のAさんが私とペアになりました。Aさんはとても素質が良くて、人柄も仕事能力も経験も良くて、よく進んで私の仕事を手伝ってくれ、彼とはとても楽しく仕事をしました。

 しかし、職場も私の修煉環境なので、修煉の道はいつも平坦とは限りません。Aさんが休みの時、同僚のBさんが私のパートナーになりました。Aさんと同じように、Bさんも法輪功の真相が分かった人です。Bさんは日勤の仕事内容も夜勤の仕事内容もよく知っていて、早朝の5時に出勤します。Bさんが来たら、まず座ってコーヒーを飲み何かを食べて、5時ぎりぎりに現場に来て、ゆっくり仕事を始めます。その仕事ぶりを見ると、所謂ずるい人でした。結局、Bさんは多くの仕事をこなせず、私は新しい仕事に慣れていない状況下でも、彼を助けなければなりません。かろうじて夜勤の仕事を日勤の仕事にうまくつなげて、日勤の同僚に迷惑をかけないように済ませました。

 最初は、少し焦りました。初日、Bさんの仕事を手伝ってあげましたが、心には不満を抱えました。私は完璧主義者で、Bさんを助けるために自分の仕事が完璧に仕上げられなくなり、心は少々不愉快になりました。翌日、またBさんとペアになっても、彼は昨日と同じ仕事の態度です。注意したいのですが、我慢して言わないようにしました。しかし「日本にもこんな怠けるやつがいるんだ」と心は平静でいられません。

 普段、仕事の中で足りないところを見ると、自分は修煉者だと思い、私はいつも黙々と補足します。しかし、Bさんを前にすると心のバランスが崩れ、助けないことにしました。その日、Bさんの仕事はピンチになり焦って、私に助けを求めに来ていないので、私も見ていないふりをしました。その時、もう一人の同僚のCさんが来て、「Bさんがピンチになっているので、あなたは助けに行かなければならない」と言いました。言われたら、なおさら手伝いたくなくなって、私はCさんに「こんなに怠けるBさんを、私は手伝いたくない」と言い返して、心の中で「どうしてあなたに指図されないといけないのか、手伝わないと言ったら手伝わない」とCさんをも不満に思いました。結局、Cさんは私を少し見て、何も言わずにBさんの手伝いをしました。

 後になって、心の中に息苦しさを感じました。それは常人レベルの不愉快なものではなく、私の空間場に良くない物質が集結したせいだと思います。Bさんを助けたくないと同時に、何かがおかしいと感じました。修煉者として、自分の心性に問題があると分かりました。あっという間に2人の同僚を敵に回しました。Bさんを助けたくないために2人と対立して、結果として自分の思い通りに助けに行っていませんが、自分はそれで気持ちがすっきりしたかと聞かれたらすっきりしませんでした。神ならば私と同じことをするのか、と反省しました。善が足りず、自己中心で、闘争心、Bさんを見下す心、恨む心などが見つかって、慈悲心はなおさらありません。

 「他の人との間にトラブルが起きたら、きっとあなたの執着心が出てきたからです。非常に明らかです。その一瞬の間に現れた執着心に気付かず、まだ他の人と対峙し、自分の理が正しいと言い争っていれば、自分が正しいと執着しているこの過程は、つまり執着が強く表れている過程です」[3]

 「しかし、大法弟子として、皆さんは善を修めているため、慈悲でなければなりません」[4]

 「慈悲は修煉によってできたものであり、意識して見せるものではありません。慈悲は心から発したものであり、他の人に見せるためのものではありません。また、慈悲は永遠に存在するもので、時間と環境によって変化するものではありません」[4]

 今日の出来事は一見小さいことですが、私の修煉上で大きな欠点を映し出しました。自分はただ真・善・忍を表面上で修めていただけで、執着心を取り除いていません。真・善・忍に同化せず、何かに遭う時に理性的でないため、そのような言動をしたのです。

 「本当の善とは、修煉者が修煉の過程で、善をもって修めている過程ですでに出来上がった本当の善のことです。衆生を前に、あなたにまだ修煉してできていない人間の部分があるため、修煉してできた神の部分を完全に表出させることができません。必要なとき、あなたは理性をもって、冷静になり修煉者らしく振舞わなければならず、自分の責任、自分の正念が主導的になるようにしてはじめて、あなたの本当の善が現れます。これは修煉者と神との違いです。これは慈悲であり、わざと表したのではなく、人間の善悪と好みの表れではありません。やさしくされたら善をもって接するということではありません。それは代価がなく、報酬も気にせず、まったく衆生のためです」[5]

 師父の言葉は私の心を正してくださいました。このことを通じて執着心を除去したいと思いました。その後のある日、またBさんと一緒に仕事をしました。Bさんは相変わらず無頓着な仕事ぶりでしたが、しかし私は変わりました。自分の仕事をきちんとしてからBさんを手伝おうと私は自分に言い聞かせました。30分のティータイムも節約して、私は自分の仕事をしっかり完成して、Bさんの手伝いをしました。そのようにして、Bさんと一緒に夜勤の仕事を無事に終えました。私の心は静かで穏やかで、自分が高く大きくなったと感じました。Bさんはずっと笑顔で私にありがとうと言っていました。

 代行の仕事は約40日続きました。最後の1週間はずっとBさんとペアになるので、それを心性を高める良い機会だと思いました。Bさんも大きく変わって、何度も、本来自身のやるべき仕事を黙々とこなしました。局面はこのように逆転しました。師父が言われたように、「大法弟子の心が落ち着いていなければ、周りの環境をも変化させます。あなたが恐れているとき、衆生もおかしくなることに気づきます。あなたが清々しい気持ちで、胸襟が広くなり、明るくなったとき、周りの環境も変化すると分かります」[5]

 結び

 半年前、署名活動にも参加し、「法輪功への迫害を直ちに停止させよ」を呼びかける文書に一つ一つ書かれたサインを見て、衆生の心からの声が聞こえたようで、彼らの命の大切さと尊さも感じました。修煉者として苦労するのは本当に何でもありません。それはもともと修煉の過程において重要な一環ですから。必ず自分をよく修めて、慈悲を以てより多くの衆生を救うように努力しなければならないと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇三年アトランタ法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:米国西部法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇三年ワシントンDC法会での説法」
 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/10/12/432414.html)
 
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