私は自ら「修は己にありて、功は師にあり」を体験
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文/河北省の大法弟子

 【明慧ネット2021年12月28日】

 一、嫉妬心を取り除く

 4年前、嫁は孫を連れて数日間、実家に帰りました。息子は仕事が休みで、彼女たちに会いに行くつもりでした。嫁は電話で、私に手羽先の唐揚げを作って、息子に持って来てくれるように頼みました。電話があった時は、すでに夜の9時を過ぎていました。冷蔵庫の中を見ると、手羽先は1袋しかなく、嫁の家族は多いので足りないかもしれないが、店はもう閉まっています。この唐揚げは10数時間漬け込まなくてはならず、明日買ったのではもう間に合いません。1袋で作るしかありませんでした。

 翌日、唐揚げを作りました。外側はこんがりと焦げ、中はとても柔らかです。それを見て、私は心の中で思いました。「私が半日かけて作ったものを全部持って行かれるなんて。だめだ、一つぐらい食べるべきだ」。当時、私は自制することができず、すでに嫉妬心が生じていたのを意識していませんでした。

 私は箸で唐揚げを一つ取り、口元まで持ってきた時、「もともと少ないのに、私が一つでも食べてしまったら、さらに少なくなってしまうのではないか? やはり食べてはいけない」と思い、元に戻しました。

 しかし、やはり心のバランスはとれず、「一つぐらい食べたっていいじゃないか」と考え、また箸を持ち上げましたが、口元までくると、また考えます。「私は一体何をしているのだろう? こんなに食べたがるなんて。しかも食べたことがないわけでもないし、どうしてこんなに執着するのか? この自制できない心を放下しよう! 食べない! 食べない!」と声に出して言い、大急ぎで唐揚げをもとに戻しました。しっかり蓋を閉め、「出来上がったから持って行って」と息子に言うと、息子はそれを持ってドアを閉めて出て行きました。

 私が台所に立つと、不思議な場面が現れました。私の胸が左右に分かれ、とても広くて明るい、あたかも壁のようなとても大きな窓が開き、その時、私はこの窓から飛び出し、「師父、これは私の嫉妬心です。私はこれを放下しました! 私は放下しました!」と叫びました。私は非常に興奮し、心が広々として明るくなり、形容のしようもありませんでした。このような状態が3、4分続きました。

 私が深く悟ったことは、「修は己にありて、功は師にあり」[1]ということです。私はこの食に対する強い執着心と嫉妬心を放下し、取り除いたことで、師父は私に別の空間の光景を見せて励ましてくださったのです。

 二、同修への情を取り除く

 私の部屋の上の階に90歳を超えるおばあさんが住んでいます。昼間は2人の娘が面倒を見ており、夜は息子が付き添っています。息子は同修です。

 昨年の春のある晩の8時前、私たち数人の同修が学法の準備をしていた時でした。あのおばあさん息子が私の夫(同修)を訪ねて来たので、私が「お兄さん、私たちと一緒に学法しませんか!」と言うと、彼は同意しました。

 法を読む時、彼はほとんど字を間違えることもなく、読む速度も適切で、私は彼が読むのを最も心地よく聞いています。彼が読む順番になると、私は落ち着いて聞き、学法が終わってから交流します。彼は多くの心性の関を乗り越えた素晴らしい体験を話しました。私はある週刊誌を彼に持ち帰らせ、見終わると返してもらい、私はそれをまた読みます。

 そのうちに、彼は私のところへ何度もやって来るようになりました。いつも修煉上でのことについて話し、私は気が付かないうちに、徐々に彼のことが気になり始めました。彼は関をうまく乗り越え、悟りがよく、妻に対してもよくしているし、座禅も長い時間続けることができるなどなど。時に週刊誌を渡さなかった時など気になります。朝、彼が母親の部屋から自分の部屋に戻るのが聞こえ、ドアを閉める音が大きく、彼が階下に降りたのが分かります。朝の8時頃の時間帯は、ちょうど私は台所で朝食を作っています。私の部屋はドアを開けて入るとすぐ台所なので、私は時々ドアを開けて、彼を入らせ、台所で少し話し、時には10分以上、ある時は20分以上話すときもあります。このような状況がとぎれとぎれに1カ月以上続きました。

 ある日の早朝、私は彼がドアを閉める音を聞き、私はまた彼にドアを開けてあげようと思いました。ドアノブを握ったその瞬間、私は気づきました。「私がいつも彼と少し話したいと思うことで、彼が本来すべきことをしようとするのを遅らせたり、私が彼の修煉が良いといつも褒めたりすることで、彼にもし歓喜心が起きたら、彼の邪魔をしていることにならないだろうか?」

 師父はこうおっしゃっています。「人間は情のために生きているのです。肉身同士の情、男女の情、親の情、感情、友情など、何をするにしても情が重んじられ、情を切り離しては何事もできません。やる気があるかどうか、気分が良いかどうか、愛しているのかそれとも憎んでいるのか、とにかく人類社会のすべてのことが情から出ています。この情を断ち切らなければ修煉することはできません」[1]

 師父のこの法を思い出し、私は手を放し、師父に申し上げました。「師父、私はこの情を放下しなければなりません。私はそれはいりません」。その言葉が口をついて出たその瞬間、私の左胸からサッカーボール大の灰色の塊が出てきて、下に落ちて見えなくなったのを感じました。その時、私は彼に対していかなる心も、いかなる考えもなくなりました。

 私はこの同修に対する情を放下したいと思いました。そして師父は再び私のために別の空間にあるその執着を取り除いてくださったのです。

 三、恨む心を取り除く

 昨年の3月、私の義姉の息子が結婚しました。その前日に私は手伝いに行き、私と義姉の同級生と同僚は翌日使う物を整理するのを手伝っていました。義姉は彼女たち2人に向かって話しました。彼女の相嫁(兄弟の妻同士)の家族は良心的でなく、相嫁の息子が結婚する時、義姉一家の3人の子供はみな手伝いに行ったのに、自分の息子の結婚には、相嫁一家は誰も手伝いに来なかったのです。義姉は気が短く、いつもぶつぶつ言っていました。彼女の同級生や同僚は、「もう言わないで。明日はおめでたい日なのだから怒らないで、機嫌よくして」と言いましたが、義姉はやはり憤りながら話していました。私はここでやっと気がつきました、彼女はどうしていつも話すのでしょうか?

 私に聞かせるのは偶然のことではなく、私も誰かに対して恨む心を抱いているのではないでしょうか? 探してみると、やはり嫁の家族に対して恨む心があったのです。嫁がお産の時、彼女の母親が我が家に来て、産後1カ月間娘の世話をすると言いましたが、結局、何もしませんでした。一日3食みな私が買い物に行き、食事を作り、さらに私1人で嫁のためにも作らなければなりませんでした。嫁の母親と妹は我が家に泊り、孫が生後100日になってやっと帰って行きました。時に思い出しては、彼女たちに対して怒りを募らせていました。

 私は心の中で、師父に申し上げました「師父、私は嫁の母親に対して恨む心を放下します」。この時から義姉は何も言わなくなりました。

 翌日、私が第五式の法輪椿法を煉っていると、両手が機制に従って、ひとりでに挙がりました。夜12時の発正念をすると、一つの小さな法輪が突然私の左側から天目の辺りに移動し、ずっと回っていました。さらにいくつかの法輪が私の頭部で左から右へ、右から左へとしきりに回転していました。これは、師父が私の嫁の母親に対する恨む心をきれいに片づけてくださっているのかもしれないと思いました。

 私の師父への感謝の気持ちはどんな言葉をもっても言い表すことができません。実際の行動で師父へのご恩をお返ししたいと思います。私は一切の執着と観念を放下し、自分をしっかり修め、より多くの人々を救い、師父に付いて家に帰ります。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/12/1/433972.html)
 
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