嫉妬の背後に
■ 印刷版
 

文/韓国の大法弟子

 【明慧日本2022年3月30日】他の青年同修が自分の子供より修煉状態が良いのを見ると、心のバランスが崩れ、自分の子供は意気地がないと思い、子供に対する恨む心が生じるのです。他人の夫が優しくて思いやりがあり、能力も優れていると聞くと、心が平静でいられなくなり、すぐに夫の様々な行動に不満を感じ、特に支払った分の報いが得られない時、悔しく思い、怨恨心が生まれてしまいます。他人の親や兄弟姉妹に地位があったり、海外に住んだりすると、まず羨ましい気持ちになり、それから嘆くのです。

 他人が得をして自分が得ていなければ、複雑な気持ちになり、その第一反応は「それは常人の中のちっぽけなものに過ぎないのではないか? 私たちが得ようとするのは、常人の中にはないものだ」と思ったりします。実は、自分の嫉妬や不平を覆い隠そうとしているのです。

 修煉においても同じで、誰かがよく修めていれば「なんで自分はこんなに下手なのか!」と落ち込んでしまいます。比較というのは、実は一種のアンバランスであり、嫉妬でもあるのです。

 なぜ、嫉妬心が生じ、心のバランスが失われるのでしょうか? 深く掘っていくと、その背後の原因は、実は世間の利益や満足を求める気持ちがあるにほかありません。

 修煉状態の良い子供がいれば、まず自分には面子があり、自分の虚栄心を満足させます。子供がよく修めていれば、自分も気苦労する必要がなくて済むわけで、とにかく世俗的な利益や利点ばかりなので、嬉しく思い満足するのです。また、思いやりのある有能な夫がいれば、感情的にも物質的にも満足し、快適で幸せな生活を送ることができるのです。いわゆる実力的な家庭や社会的なつながりを持つことは、自分にとってメリットのあることであり、たとえ彼らから便宜を得なくても、彼らが自分に迷惑をかけることがないので、自分は楽に暮らすことができるのです。

 他人が利益を得ているのを見ると、大法の法理を用いて自分のアンバランスを覆い隠そうとします。実は、自分の心を楽にさせたいのであり、自分が欲しくても得られなかったものに対する一種の自己満足です。

 同修同士の間の比較は、闘争の要素も含まれており、得られなかった後の落ち込みやアンバランスのようなものであり、同修の良いところが自分の欠点と対比されて違和感を覚えることでもある、などなど、挙げればほかにもたくさんあります。

 ずばり言えば嫉妬の背後には、常人の中で快適に暮らすため、傷つかないため、名、利、情の中での理想的で美しいもの、幸せな生活を享受するためです。

 私は20年以上修煉していますが、嫉妬心を未だに完全に取り除いておらず、一つの考え一つの念の中で、今でも時折、反映されることがあります。今日、この嫉妬の背後の原因を掘り出して、それを徹底的に解体させ、取り除きたいと思います。

 自分の次元の悟りですので、不適切なところがあれば同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/3/26/440380.html)
 
関連文章