学習と生活の中で闘争心を取り除く
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文/海外の青年学習者

 【明慧日本2025年5月8日】私は大学2年生です。修煉の過程で得たいくつかの体験を皆さんと分かち合いたいと思います。

 大学1年生の時、私は非常に熱心に勉強し、2023~2024年度の「優秀学生賞」を受賞しました。表面的には、名誉や賞金に淡泊に見えたかもしれませんが、心の奥底では非常に嬉しく、喜びに満ちていました。受賞した後、心の中で「今は受賞できたけれど、この先にはきっと困難が待ち受けているだろう」と思いました。

 予想していたとおり、受賞から数週間後、試練が現れました。廊下を歩いていると、多くの人が私の成績を祝ってきました。私は「遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」(『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」)と自分に言い聞かせました。私はその褒め言葉を無視しようとしましたが、その称賛が私の注意力を妨げ、学業成績に影響を与えるのではないかと心配しました。しかし、時間が経つにつれて、これらの褒め言葉によって「自分は確かに能力があり、才能がある」と感じるようになりました。そして、周囲の人々に対する私の態度も変化していきました。

 私には同じ授業を受けている親友がいます。学業成績や点数では私がわずかにリードしているにもかかわらず、その友人はいつも課題に多くの努力を注いでいました。そこで私は「もし彼らがずっと努力し続けたら、最終的には私を追い越してしまうかもしれない」と心配し始めました。何度か、私はあまり勉強していないふりをして、友人もそうであってほしいと願いましたが、夜になると誰にも気づかれないようにこっそり熱心に勉強しました。友人が授業中に先生の質問に答えるたびに、私はますます不安になり、嫉妬を感じました。授業中、私はこれまで以上に積極的に発言し、誰も私と同じくらい早く質問に答えられないようにしました。何度か、友人が困難に直面している時に、自分が優越感を感じていることに気づきました。私は友人の困難を、友人たちより優位に立ち自分の名声を維持する機会だ、と捉えました。私の思考は常に競争モードにあり、自分が最高の学生であることを示そうとしました。友人が劣等感を感じたり、できないと感じたりするたびに、私は誇らしい気持ちになりました。

 私の目には、この親友は学業においても課外活動においても、常に私と競争しようとしているように見えました。その後、新学年が始まると、ますます多くの新入生がやってきて、まるで超えなければならない競争相手がさらに増えたかのように感じ、自分が直面する障碍が増えたように感じました。最近の学期では、何人かの新入生の成績が非常に良く、GPA(訳注:Grade Point Average「グレード・ポイント・アベレージ」:学生の学業成績を数値化した指標)がほぼ完璧だと偶然耳にし、その新入生たちによって再び私の名声が奪われるのではないかという恐怖心を煽られました。「なぜあの学生たちはあんな風に見えて、あんなに勉強ができるんだろう?」と私は考え続け、面子を失うことへの恐れが頭から離れませんでした。

 日常生活や学習においても、自分と同様にチャンスを得る可能性のある同修に対してマイナスの見方をしてしまうことに気づきました。以前ほど自分が「特別」ではないと感じるようになり、他者の成功を素直に喜べなくなくなりました。私はある種の心理的な危機を経験しました。表面的には良い友人であろうと努力しましたが、心の奥底では、他人の成功を喜ぶことができませんでした。

 学習に対する私の態度も変わりました。授業中、集中するのが億劫になり「理解しなくても良い成績は取れるだろう」と思うこともありました。聞いているふりをしながら、頭の中ではどうやって他人を出し抜くかばかりを考えていました。努力しなくても課題をこなせると思い上がり始めました。その傲慢な態度をインターンシップの応募にも持ち込み、良い成績さえあれば必ず採用されるだろうと高を括っていました。しかし、中間試験が近づくと、自分の努力が全く実を結んでいないことに気づきました。多くのインターンシップで不採用となり、成績も良くありませんでした。

 ある校外のグループ学法で、私は学習と修煉において疲れ果て、意気消沈しているというネガティブな気持ちを皆に話しました。すると、ある同修が私の状況を聞いて、師父が『轉法輪』第六講で説かれれた以下の法を思い出したと言いました。

 「自分自身を見てみたいものだ。そう思って自分を見てみると、本当に佛の姿をしています。それはなぜでしょうか? すなわち彼の身のまわりの空間場の範囲内にある物質すべてが、彼の意識によって演化するからです。それは『心による変化』とも呼ばれます」。

 同じように、私は自分が作り出した間違った思い込みに支配され、誰もが私と私利私欲を争っているように感じていました。物質的な利益に執着しないように努めてはいましたが、他人から関心を持たれることに満足感を感じ、徐々にその中に深くはまっていきました。

 同修の指摘によって、私は別の法の一節を思い出しました。師父は「そういう人は良い人なので、最初のころは、人の病気を治して、お金を渡されても贈り物を渡されても、受け取らないかも知れません。しかし、このような返修の者は心性の修煉を真に経ていないため、自分の心性を制御することが難しいのです。常人という『染め物がめ』での汚染に抵抗しきれず、だんだんとちょっとした記念品を受け取るようになり、そのうち大きな物までもらうようになり、しまいにはくれるものが少ないと承知しなくなります。最後にはとうとう『物をたくさんもらっても仕方がないから、金をくれ!』と言い出し、その上、金が少なければ機嫌が悪くなります。本物の気功師のことまで認めなくなり、耳に入ってくるのは、自分がどれほどすごいかを褒めてくれる言葉ばかりです。ちょっとでも批判の言葉を聞くとご機嫌斜めになり、名利心も高ぶり、自分が誰よりも偉く、大したものだと思い込みます。この功を与えられたのは、自分を気功師にして、大金を儲けさせてくれるためだったのだと勘違いしますが、本当は彼に修煉させるためだったのです」(『轉法輪』)と説かれました。

 確かに私には嫉妬心や傲慢な気持ちがあり、時には同修を見下してしまうことさえありました。常に緊張し、いらいらして、落ち着かないと感じていました。正直に言って、私はこのネガティブな状態に長い間向き合ってきましたが、これらの執着を放下することができず、どうすることもできませんでした。一つの執着からさらに多くの執着が生まれ、それらの執着が私を2年近くも苦しめてきました。

 自分でも問題に気づいているのに、なぜそれを取り除こうとしないのか理解できませんでした。表面的には、私はずっと法を学び、煉功もしてきました。同時に「これらの執着を放下しよう」と自分に言い聞かせてきましたが、心の奥底ではずっとそれらを握りしめて離しませんでした。なぜ自分がこんなにも執着を強く握っているのか、説明できませんでした。何度か、執着心を擁護しようとさえし、理由をつけて正当化し「大法のプロジェクトを行い、結果として学業の成功を収めたのは、法を実証する現れだ」と言い訳をしました。長い間、本当に疲れ果て、修煉において向上できないように感じ、修煉をやめてしまった方が楽かもしれないとさえ考えました。本当に修煉をやめることについて深く考え、時にはそれを自然なこと、自分の性格の一部だとさえ思っていました。

 その後、師父の『カナダ法会での説法』を学んでいるうちに、私は自分が本当にこれらの執着心を取り除きたいとは思っていなかったことに気づきました。反対に、私は個人的な名声や利益を心配して、執着心を隠そうとさえしていました。それが私の進歩を妨げていたのです。考えすぎることもまた、一つの執着です。

 その後、私は常に正念を保ち、自分の執着を甘やかさないようにする必要があることに気づきました。ですから、常に真・善・忍の基準で自分自身を測らなければなりません。正直に告白すると、今でも時々、闘争心、嫉妬心、顕示心、名利を求める心が現れることがあります。しかし、私はそれらを取り除くように努力し続け、これらの執着を手放すことを学んでいます。

 執着を取り除く過程がどのようなものであれ、トラブルは良いことであり、私の心性をさらに向上させるのに役立つと理解しています。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/4/23/492845.html
 
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