【入選文章】 なぜ進化論の市場がまだあるのか?
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文/欧陽非

 【明慧日本2022年5月14日】二十数年前、アメリカに留学していたとき、中国人の教授に食事に招かれたとき、食事中、教授の奥さんが「進化論は一種の仮説だ」と言われたのを聞いて驚いたことを今でも覚えています。会社の重役である彼女でさえ信じ込んでいるのですから、進化論に対する誤解はかなり広がっていることが伺えます。誰も幼い頃から進化論が真理だと教えられているのですから、当然といえば当然でしょう。しかし、それが本当に真理だとすれば、今日、生物学部で進化論を研究している教授たちは何のために忙しくしているのでしょうか?

 ある時、職場の博士号をもつ同僚と話していたとき、進化論を信じる彼は、人間と猿のDNAには1%の違いしかないと例を挙げました。私はこの1%をしっかりと覚えました。そしてつい最近、2007年の『サイエンス』で「人間はチンパンジーと1%しか違わないのか」の記事を読んで、はじめてこの1%説がとっくに覆されたことが分かりました。1%説は、1975年に行われた少数の遺伝子の比較に基づくものでした。2003年~2005年頃に人間とチンパンジーの遺伝子の配列解読が完了し、類似性の再検討が行われた結果、1%をはるかに超える差があることが明らかになりました。一方には存在し、他方には存在しない遺伝子も多く、実質的な類似率を計算することはほとんど不可能であるにも拘らず、この1%説は進化論の証拠として、今でも広く普及しています。

 ダーウィンに別れを告げる?

 ダーウィンの学説の本質は「自然淘汰」、つまり「適者生存」です。地球上に原始的な生命(創造主によって造られた可能性を残した)が存在するようになってから、あらゆるものが進化しうるというのです。進化はランダムで偶然であり、段階的、そして単純から複雑にという過程を経ます。その核心は、いかなる外部による智慧の介入もなく、生命の生存本能(その本能はどこから? 懸念が残る)だけに頼ると言うのです。百数年来、生物学、特に進化論の確証を得る目的で始まった遺伝子研究は大きく発展しました。しかし意外なことに、これは諸刃の剣で、多くの証拠がダーウィン仮説に挑戦しているのです。

 2009年、中国科学院古生物学研究所は、「ダーウィンに別れを告げる?」と題したダーウィンを称える記事を発表しました。別れを急がないように説得するのが狙いでしたが、進化論が直面している挑戦についてまとめられているのが印象的でした。その一部をご紹介します。

 「種を超えた大きな変異は、ダーウィンの漸進的変化方式では説明することが困難です。これがダーウィン学説の欠陥の一つでもあります」

 「真新しい生物の集群が旧い生物の集群に取って代わって現れる変化も、漸進的で緩やかな生物の進化では実現し難しいものです」

 「生命が尋常でない爆発的な進化を遂げていることから、進化や生物多様性(種の形成)は自然淘汰や生存競争を経なくても起こりうることを物語っています」

 「生物の分子レベルの突然変異のほとんどは中性かそれに近いもので、優劣もなく、適応か不適応かもないことから、自然淘汰は作用していないことが分かります。ここで、進化における自然淘汰の決定的な役割を根底から揺るがせました」

 実は、ダーウィンの学説の礎である自然淘汰は、とっくに穴だらけになっていました。

 皆さんもご存じのように、科学の法則には境界条件があります。ニュートン力学の適用範囲を超えれば、相対性理論や量子力学を参照しなければなりません。進化論にしても、同じことが言えるのではないでしょうか? 種の中では、進化の様子を観察することができるかもしれません。例えば、長毛の犬、短毛の犬などを培養することができます。しかしいくら培養しても、犬が豚に変わってしまうことはありません。これが『ダーウィンに別れを告げる?』で述べられている懸念の一つでもあります。また、この記事は「生命の大爆発」についても触れています。それは、1984年に中国雲南省澄江帽天山付近で発見された保存状態の良いカンブリア紀初期の古生物化石群を指していて、生命の「カンブリア大爆発」とも呼ばれています。現存のほぼ全ての動物の門と絶滅した生物が突然カンブリア紀の地層に現れ、古い地層からはその祖先の化石が見つからなかったのです。この発見だけでも、ダーウィンの学説を根底から覆すことになります。私たち中国人は、ダーウィンの漸進的進化論に一種のジョークをぶつけたとしましょう。

 進化に設計図があるのか?

 『ダーウィンに別れを告げる?』では触れられていない、進化論に関するもう一つの論争の争点となっているものがあります。それは、生物が持つ「一つも欠かせない複雑性」です。ネズミ捕りを例に挙げると、地板、ハンマー、バネ、仕掛け、金属棒のどれもが不可欠です。あれほど小さな細胞が、どうしてもネズミ捕りに例えることができるのかと思う人がいるかもしれません。小さくてもシンプルとは限りません。指の爪ほどのチップに数百億個のトランジスタが収められていて、親指ほどのUSBメモリに200万冊の本が保存できるのです。細胞の中の構造は、どれだけチップやUSBメモリより複雑になっているか分かりません。現代の分子生物学は、細胞構造のレベルでは、夥しい数の簡略化できない複雑なシステムが存在していることを発見しました。一つの細胞には何千億もの原子があり、まさに超小型工場と言えます。

 近年、欧米を中心に進化論に批判的な「インテリジェント・デザイン」運動が巻き起こっています。運動の中心人物である生化学者のマイケル・ベーエ氏は、「鞭毛」と呼ばれる器官の助けによって動く細菌を例に挙げて説明をしました。シンプルに見えるこの「鞭毛」は、実はエネルギー、伝達、駆動、方向制御などに関する機能を持っており、さまざまなタンパク質からなる「パーツ」によって機能を働かせる非常に精妙なシステムなのです。ベーエ氏によれば、細菌の「鞭毛」はまさに、どの構成要素も欠落してはならない典型的な「還元不能な複雑な系統」なのです。デザインの設計図がない仮定で、ダーウィンの進化論によれば、進化のプロセスは連続的、無作為、偶然、微細であり、個々の部品が現れたとしても、足手まといの可能性が高く、淘汰されるべきなのに、どうして最終的に完璧な機械が形成されるのでしょうか?

 遺伝子の突然変異の発生は完全にランダムではなく、それどころか、突然変異の発生区域には明確な規律性があると主張する研究が、2002年初めにアメリカの科学雑誌『ネイチャー』に発表されました。これは、智慧やデザインの設計図がそこにあることを示唆しているのでしょうか? もちろん、これはまだごく初期の結果です。科学が発展すればするほど、よりミクロ的な世界が見えて、より多くの生命の神秘が発見され、進化論に対する挑戦も大きくなるかもしれません。時間は進化論の対立面に立っていると言われているのも頷けます。

 「進化論」の背後にあるのは何か?

 進化に関する理論は、ダーウィン以前に存在していました。ダーウィンが提起した「自然淘汰」によって、進化論は「科学的」な面を与えられ、上流の席に坐ることができました。不思議なのは、「自然淘汰」が現代生物学による多くの挑戦を前にして破綻を迎えているにもかかわらず、多くの人が未だダーウィンを必死に擁護し、進化論を信じ切っているのです。これはなぜでしょうか?

 深く探ってみれば、ダーウィンの学説は率直に言って、その背後にある黒い手である「無神論」に利用されただけなのです。19世紀、ヨーロッパでは信仰の危機が訪れ、無神論が広がりました。1848年に発表されたマルクスの『共産党宣言』は無神論の宣言とも言えるもので、ダーウィンの『種の起源』より10年も早かったのです。ダーウィンが世界を変えたのではなく、神を信じない風潮がダーウィンを必要としていて、ダーウィンの進化論を利用して無神論の広がりを助長させたのです。今日、進化論がほぼ無神論の代名詞になっている状況下で、ダーウィンの進化論の仮説を覆す証拠の続出を前に、「無神論」に影響されている人々は「進化論の進化」を口にしながら、絶えず新しい仮説を立ててそれを補おうとしており、甚だしきに至っては「新ダーウィン主義」の名まで作り出しました。これは、科学史の中でも珍しいアプローチです。アインシュタインがニュートン力学と決別したのは、それが純粋な科学だったからです。一方、人々が進化論と決別することを恐れ、嫌がるのは、進化論を科学として研究しているのではなく、進化論や無神論を自分の信仰としているからです。反証された科学を捨てるのは簡単ですが、信仰を捨てるのは難しいのです。

 コペルニクスの「地動説」は、昔「教会」が科学を阻害する代表的な話になっています。今日、無神論はすでに最大の宗教となっており、「教会」という王様のような立場に居座り、人々の自由な探求を妨げています。「無神論」の根幹に触れるいかなる思想も容赦なく弾圧され、嘲笑され、一網打尽にされるのです。歴史は繰り返されており、ただ役割と場所が違うだけなのです。

 この一網打尽は各方面に現れており、その理由も不条理なものばかりです。数年前、「インテリジェント・デザイン論」と進化論の間で大きな論争がありました。当時、アメリカの科学雑誌『サイエンス』の出版社は、進化論を疑問視する500人以上の科学者が署名した声明に対して、『北京科学技術新聞』のインタビューでこう発言しました。「(わずか500人の)少数の科学者が信じているのは科学ではない」。中国の「真理はしばしば少数者の手にある」という諺どころか、コペルニクスがかつて少数派だったことも、彼は知らないでしょう。実際、ほとんどの科学者は教科書から「進化論は真理である」と学んで育っており、彼らが進化論を支持するのも当然のことでしょう。しかし、彼らの言葉を用いて進化論が真理であると裏付けていくやり方は、科学的とは言えません。

 神への畏敬を抱く

 仮説としての進化論は、今後も研究されていくでしょう。しかし、創造主を否定することを前提にするのではなく、開放的な姿勢を保つことが必要だと思います。アインシュタインの態度は参考になります。アインシュタインは自分が無神論者ではないと言ったことがあり、宗教を信じる者ではないとも言いました。彼は、神についての質問が「世界で最も難しい問題」で、単純に「イエスかノー」で答えられる質問ではないと考えており、「それに関係する問題が我々の限られた頭脳にとって大きすぎる」と認めていました。

 それにかかわる問題は確かに大きいのです。進化論の背後には無神論があり、無神論の背後には何があるのでしょうか? それはサタンであり、悪魔であり、邪霊なのです。それらは人々に神を信じさせず、善悪に報いがあることを信じさせず、善良で誠実でいるべき道徳的根拠を見出させず、終極の目的は人間の道徳をどん底にまで引きずり込み、人々がもはや人間の規範を持たないようにし、延いては人間を破滅させてしまうことにあります。良い暮らしをしたいだけで、神を信じようが信じまいが、自分には無関係なことだとあなたは言うかもしれません。しかし、神への信仰を持たず、善悪に報いがあることを信じない社会で、どのような現象が現れているかは一目瞭然ではありませんか。詐欺や汚職はさておき、医師の論文の偽造、チップの偽造、企業家の資金調達の偽造など、「お高くとまる」詐欺が中国では珍しくありません。このような社会で生活していて、あなたは無関係でいられるのでしょうか?

 中国では古来、頭上三尺に神がいると言われています。ただ共産党は中国の国民に無神論を押し付けただけなのです。1980年代の気功の流行は人々の思想を開き、中国の伝統文化と繋げさせました。1999年7月、江沢民一味による法輪功への迫害以来、中国共産党は再び無神論の旗を掲げ、「真・善・忍」の信仰を弾圧し始めました。中国社会のモラルの危機は他でもなく、まさにこの逆流が生んだ苦い果実ではないでしょうか?

 アインシュタインは「我々の限られた頭脳にとって、関わっている問題が大きすぎる」と言いました。神への信仰を人間の道徳と結びつけて考えてみれば、その問題は確かにあまりにも大きすぎます。進化論を用いて無神論を売る言葉には、十分なほどの警戒心を持つべきではないでしょうか?

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/4/12/440947.html)
 
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