人間の観念を突破して神に向かう
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年6月26日】明慧ネットで中国本土の総合ニュースを見る度に、同修が強制連行され、不法に法廷尋問され、判決されたのを見ると、非常に心が痛いと感じています。今は時間が厳しく、人を救うことにはさまざまな困難があり、この状況で迫害されて、どれほどの損失を被るでしょうか? また家族や、親友にも多くのマイナス影響を与えています。

 現在邪党の監視は至る所にあり、ビックデータ、顔認識システム、監視や尾行、通報を奨励するなどあらゆる手段を使い、衆生を済度することに多くの困難をもたらしており、どうすれば良いでしょうか? もし人間の次元に限られ、人間の理で図ると確かに難しいです。しかし、私たちは修煉者なので、常人を超えています。

 師父は、「修煉者が重んじているのは、正念です。正念が強ければ、何でも食い止めることができ、何でも行なうことができるのです。あなたは修煉者で、神の道を歩んでおり、常人の要素、低次元の法理に制御されていない人だからです」[1]と説かれました。ですから私たちは神のように強くなるべきです。ではどうやって神のように強くなれるのでしょうか?

 一つの物語で、ある修道者が山を降りる時、師父は彼に二つの宝物をあげました。一つは令牌(れいはい、道士が命令を発する札)、もう一つは遮蔽服(しゃへいふく、姿が見えなくなる服)です。危険に遭ったとき、令牌を出すと危険から逃れられます。「もし遮蔽服があれば、資料を配る時、真相を伝える時、安全になるでしょう」と思った同修がいるかもしれません。このような遮蔽服は、私たちにありますか? 私は「ある」と思います。

 師父は「われわれはここで皆さんに『法輪』をはじめ『気機』や、修煉に必要なすべての『機制』を植えつけ、幾万以上にも及ぶものを、種のように蒔いてあげるのです」[2]と説かれました。

 ここで言う幾万以上のものに令牌と遮蔽服は含まれますか? 私は含むと思います。では私たちの令牌は何ですか? それは「大法弟子」です。この宇宙第一の称号で、いかなる次元でも、如何なる空間でも通用します。

 師父は、講法の中で、武漢の30歳の若者が色魔に直面したとき、まず考えるのは自分は法輪功の修煉者です。こう考えればすぐに難関を乗り越えられました。明慧ネットの交流文章に、ある女性同修が外で真相を伝えた後、家に帰る時、悪人に掴まれ、同修が「私は法輪功の修煉者だ」と言うと、その悪人はすぐ手を離し、同修は無事に帰りました。私たちはこの空間で自分の身分をはっきり伝えれば、他の空間の神と護法の神はあなたを助けないはずはありません! このような例が古代にはたくさんあります。

 遮蔽服と言えば、私の理解は他の空間に入ったということです。他の空間に入れば、普通の人には見えなくなるでしょう。

 師父は説法、武術気功の中で、「別の空間を自由に行き来することさえできる人もいる」[2]と説かれました。

 師父はこのような功法は常人の中には存在しないと言われました。しかし私たちは常人ではありません。同修の交流にもこのような例がたくさんあります。例えば、ある女性の同修は警官に捕まえられている時、彼女は彼らに自分が見えないように念ずると、警官は彼女が隣にいるのに、彼女が見えず、仕方なく去って行きました。

 私個人の理解ですが、他の空間に入るのは非常に高い次元に達する必要はありません。神韻にもこのような演目があります。古代の書籍にもこのような記載があります。道家の物語には、人が壁に門を描いて、その門を開いて出かけたということもあります。皆さん考えてください、手で壁に門を描いて、何の役に立ちますか? 壁の分子成分は変えられておらず、変えるのは彼の心です。彼はこの門が壁でないと思っているから、通ることが出来ました。宇宙人でさえこの物質空間を突破することができるのに、私たちはなぜ突破することができないのでしょうか? それは私たちがこの空間の目に依頼しすぎ、観念を変えない限り、突破することはできません。

 私個人の考えは、師父はすでにこの空間を突破することができる鍵を私たちに下さいました。『轉法輪』の中に「ご承知のように、物質は微粒子の状態において、分子、原子、陽子などがあり、とことんまで調べていって、もし、各層で一つ一つの点ではなく、その層の面を見ることができれば、例えば分子の層の面、原子の層の面、陽子の層の面、原子核の層の面を見ることができれば、違った空間の存在のあり方が見えるようになります。人間の身体も含むあらゆる物質は、宇宙空間の空間次元と同時に存在し、互いに通じ合っています」[2]と書かれています。

 それらが同時に存在し、互いに通じ合っていることをはっきり知っているなら、この空間を突破することができるでしょう。同修と交流するとき、このような話を聞きました。「ある同修は自転車に乗って、資料を配る時、警官に追いかけられて、彼は集団住宅に入って、自転車に乗りながら、後ろの警官を見ていて、前に鉄の柵があるのに、全然気づかないで、鉄の柵を通り抜けました。後ろの警官はそれを見て唖然としていました」

 神韻にも神通力を使う演目がたくさんあります。「済公が悪人を罰する」など、演目の中に、済公は狼のような悪人に対して、気ままに悪人を指示して、やらせています。このような物語がたくさんあります。

 これらの神通力は法の中に全てあります。私個人の理解としては、師父は私たちが法を実証する時、衆生を救い済度する時、神通力を使うことを認めておられます。師父は「大法弟子の正念は威力あるものである」[3]と説かれており、私たちが神通力を使うようにと明確にされました。実は師父は全ての物を私たちに授けて下さいました。しかし、私たちはまだ悟っていません。私たちの能力の源は師父であり、大法であります。私たちが正念正行であれば、神通力を使うことができます。

 私は以前ずっと「長年修煉しても、なぜ神通力を使うことができないのか?」と考えていました。法理では分かっていますが、なぜできないでしょうか? まず、私たちが完全に師を信じ、法を信じていないからです。次に、私たちの観念が変わってないことで、自分を小さく見て、邪悪を大きく見たからです。つまり、法を小さく見ているのです。私たちは宇宙大法を修煉しており、私たちの師父は宇宙の主です。法は一体どのぐらい大きいのか、師父の次元はどのぐらい高いのか? 私たちにはその概念がなく、そしてそこまで考える勇気もありません。

 『封神演義』の中に12人の仙人(元始天尊の弟子、神を報じる姜子牙を助けた)がいます。そして12仙人の神通力は非常に強くて、彼らの弟子の神通力も強いのです。修煉者の次元と能力は彼の根基と悟性に関わります。もっとも大事なのはその修煉者の師父の能力(師父の次元の高さ)です。その12仙人の師父は元始天尊であり、如来の次元より少し高いのです。私たちの師父は誰でしょうか? 宇宙の主です。では、考えてください、私たちの位置と能力はどうなっているのか? 私たちが背負っている使命はどのぐらい大きいのでしょうか? こんなに大きい能力がなければ、このような使命を果たすことはできません。このことについて、私たちははっきり認識すべきです。ですから衆生を救い済度する中で神通力を発揮することは正常なことでしょう。

 同修の交流文章を読んで、このような話がありました。迫害された時、如意棒を持っていたのに、殴られた。金の碗を持っているのに、乞食をしている。本当にこのようです。厳しく言えば、これは師父と大法に対してとても恥ずかしいことです。その時、師父はどういうお気持ちでしょう。私たちは難を乗り越えられない時、師父にお願いすべきでしょう。その時、師父のことを思い出せないなら、旧勢力は隙に付け入ります。私たちがしっかり行わなければ、師父も困っておられます。

 私たちは確固として師を信じ、法を信じ、観念を変えて、人の認識から抜き出すことができれば、なんでも行うことができるでしょう、法を実証すること、衆生を救い済度することをよりよく行い、しっかり最後の道を歩むことができれば、自分の使命をしっかり果たすことができます。

 次元に限りがあり、認識に限りがあり、不適切なところがあれば、ぜひご指摘お願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『ロサンゼルス市法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「大法弟子の正念は威力あるものである」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/6/8/441886.html)
 
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